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御神訓

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御神訓について(十五条の御神訓を賜ってより十周年の感謝祭での宮司講話)

宮司(現名誉宮司)講話

*十五条の御神訓について*

『玉の光』と『十訓』成立のいきさつ

宮司(現名誉宮司)

 海軍の時は、久里浜の海軍兵学校分校に入っていたが、外出は藤沢までで、そこから先は電車に乗ってはいけなかったのです。 小豆島から出てきて、汽車とか電車に乗るのは珍しくてね。 一応士官だから短剣を吊って、外に出るときも海軍の兵隊たちが皆敬礼してくれるからいい気持ちだったけれども、特攻隊だからいつ死ぬか分からない。 沢山死んだんですよ・・・。
その藤沢に、一遍上人が開かれた清浄光寺という時宗の総本山があります。 そのお寺の塔中の一つの住職さん(当然、時宗のお坊さんですが)から、「自分の家のお寺に昔から伝わっている経典の一つに恵厳顕蔵経というのがあって、それには神道の神々の系図のようなものが書いてある。 四百年か五百年ぐらい前にたぶん古神道の人たちが書いた経典のように思うけれども、これは時宗のものではないから、それを差し上げましょう」というふうに、当時そのお寺の総代をしていて、ここのお宮(玉光神社)の総代もしていた中村太一さんに話があったのです。 中村さんが、それを大神様に申し上げたら、その経典は大神様が五百年か四百年ほど前に或る人をして神様の教えを書かせられた経典で、日本の国の成り立ちのようなもの、それから、人としてするべきこと、そういうことが書いてあるから、『持ってくるように』という御神言があったのです。 それで、そのお坊さんがその経典を下さるということになり、持って来られたわけですね。
この経典は漢文で書かれていたのですが、それを、その当時、玉光神社の信者さんの一人で、千勝神社の宮司の千勝さん(今の宮司さんのお父さん)が国学院の教授をされていたつながりで、久我山にある国学院の漢文の先生か何かをしていた人が、日本語に訳してくれたのです。 また、当時朝日新聞の編集主幹だったのかな、森園さんという方がいて、その方も長い間、「人の道」教団の信者でしたが玉光神社に移られてきた信者さんでしたが、この森園さんと漢文の先生の二人で恵厳顕蔵経を訳したのを要約した、それが今の『玉の光』なのです。
その中からさらに、人間のこの世の中で守るべきこと、あるいは、すべきことを纏めたのが、『十訓』なのです。 当時の十訓の七番目は「すべて勝を念とする勿れ」となっていましたが、これはとても神様の教えには合わないと思うから、僕が「果を求めずして己が本務を尽くすべし」と書き直したのです。 勝つとか成功するとかということを主に説いた本を沢山出している教団もあるようですが、神様は、勝つとか負けるとかというところを超えていつも教えを説いていらっしゃるから、この条は間違いで、これは退けなければいけないというので、『果を求めずして己が本務を尽くすべし』としたのです。
当時はアメリカが日本を占領していた時代で、一切の文章、あるいは公にする文書、こういうものは全てGHQ(ゼネラル・ヘッド・クオーター)のマッカーサー直轄の編集教育部門があって、そこで検閲を受けないと通らなかったのです。 経典も自由には書けなかった時代だったのです。 それで、なんべんもなんべんも、その当時は都庁の中にあったのかな、そこへ十回も二十回も足を運んで、直すとまた、「ここを直せ」と言われる。 また、言う奴が二世の日本語の半わかりの奴で、「しようがない奴だ」と思うのだけれども、向こうの言う通りにしないと通らないものですからね。
 二番目の『己だになくば神のみこゑを聞き得べし』、これも書き直したのです。
そうやって『十訓』が出来たのです。

『十訓』の特徴

 『十訓』が出来たいきさつはそういうことなのですが、『十訓』では、『神は一切萬霊の王』と、神様と霊界あるいはこの世とのつながりについては一番初めに出ているのだけれども、あとは要するに、『家の古いカルマを清めるように』とか、『人間は憂愁に囚われてはいけない』、あるいは、『夫婦和合して成らざることなし』『人は行うことによりて其の地位を決定する』『堕心はあらゆる邪神邪霊を呼ぶ』というふうに、人間がこの世の中で行なうべき道徳のようなものが主なのですね。
 日本の新興宗教では、例えば仏教の経典に基づいて教義を説いている教団であっても、実際には、家で人間はどうしなければいけないか、社会でどうしなければいけないか、というような道徳を細々と教えてそれを信者が守っていく、そういう宗教のありかたが主流なのです。
日本の国というのは昔から農耕民族ですから、一つの社会の中でどういうふうに仲良く生きなければいけないか、たとえば氏神様を祀るのにはどうしなければいけないか、そして皆が仲良くやっていくのには何をしたらいいかという、そういう社会の枠組みの中で仲良く暮らすための道徳的な教えの中で生きてきた。 ですから未だに、新しい宗教が勃興しても、「人の道とは何か」というふうに、人間の生きる道徳というものを主にして教えを説いて、それでどんどん広がってきているわけです。 また、そういうふうに、この世での人間が行なうべき道徳を説いた教えでないと、日本人の場合は昔からの農耕社会の中での道徳的な教えが一番主になって生きてきたわけだから、そういう道徳を教えないと宗教としても広がらないわけですね。 それが戦前戦後をとおしての、日本の宗教のあり方なのです。
 『玉光教十訓』が出来たのは、私が二十三、四ぐらいから二十四、五ぐらいの間に出来たのです(編集部註:『玉の光』初版発行は昭和二十三年十二月)。
それから行を始めて、神様とのつながりがだんだんに深くなり、広くなるに従って、この『十訓』だけでは本当の神様の教えが半分ぐらいしか入っていない、あるいは、神様の教えがこの世的な面で説かれているけれども、本当は神様と人間との直接のつながりはこうでなければいけないのだというふうに、行をして自分が霊的に成長して神様とのつながりが深まるにつれて、神様の教えは『十訓』だけでは足りないというふうに、三十近くの頃にすでに思っていたわけです。
 母たちがいらっしゃる間はこれで通っていたわけで、『十五条の御神訓』を公にしたのは十年前ですが、実際にはもう三十年ぐらい前からそういうふうに思っていたわけです。

『御神訓』と『十訓』との違い

『十五条の御神訓』の『十訓』と非常に違うところは、『十訓』の場合は、神様の教えが、人間がこの世の中でしなければいけないことはどういうことかということが主になっている。 それに対して『十五条の御神訓』は、神様が中心というか、神様が人間や自然、あるいは霊界を創られ、そして、神様に創られた霊とか魂とか自然とか人間とはどう生きるべきか、神様のところに還るのにはどうしたらいいかが中心になっている。 つまり神様と人間との、あるいは神様と自然、人間、そういうつながりを受けて、人間がどうすべきかということを説いたのが『十五条の御神訓』なのです。
仏教では、人間が行をすることによって、あるいは日常の祈りや道徳の訓練を通して、悟りの世界に行くというのが教えの一番の根幹になっている。 ところがその仏教が日本へ来ると教えの内容が大きく変わった。 インドは半分砂漠のような所ですから、そういう所では、食べる物が足りない、そして生きるのが非常に大変ですから、この世的な苦を逃れて悟りの世界に行きたい、そういう願いがインドでは非常に強い。 つまり心が彼岸に向いている、悟りの世界に向いているわけです。
それに対して、日本では自然に恵まれて、春夏秋冬の違いがあって、お米が毎年出来る、麦も出来る、野菜もある。 そういう自然の恵みのある所では、自然に従って生きたらいい、自分が属している社会の規則を守って安定した暮らしを伝えていったらいいというふうに、そういう意味では考え方が非常に世俗的なのです。 人間の心が神様の方へ還りたいというよりも、神様のお陰で生きているこの世の中で、社会をどういうふうに豊かにし、皆が仲良くやっていくのにはどうしたらいいかを考える。
日本では食べる物はいっぱいある。 今は輸入しないと足りないけれども、昔は日本の人口が少なかったから、自給ができたのです。 それから、人間が生きるためにはまず水がないとだめですが、日本では山に行ってもどこへ行ってもきれいな水がいっぱい流れている。 ところが、砂漠に行ったら水がないわけです。 水がないと人間は生きられない。 そういう厳しい自然の中では、たとえばイスラムやキリスト教で言っている天国というのは、水がいっぱい流れていて、物が豊かな、それが天国なのです。 そういう砂漠地方からみたら、日本は天国そのものなのです。 だから、この世的なものにいつも目が向いている、そういうのが日本の宗教だから、この世の中で仲良く暮らすのにはどうしたらいいかという、この世的な教えを説くというのが、日本の仏教あるいは神道の教えであるし、今でも全ての新興宗教の教えの特徴なのです。
仏教にしても、絶対の悟りの世界に直結し、悟りの彼岸の方へ目を向けていく、あるいは悟りを開いて絶対のところへ行くという本来の仏教のあり方を、まるきり逆にしてしまったのが中国や日本に入った大乗仏教なのです。 中国に大乗仏教が渡り(中国も日本と同じように農耕民族が主です)日本に渡ってくると、本来の、悟りを求めて彼岸に行くはずの宗教が、お不動様、観音様のご利益を戴くような、この世的な宗教に成り下がってしまった。 それはそういうふうにしないと日本では宗教としては通らない。
それが今の日本の何宗教の教義であろうと、みな同じなのです。
 ところが、本来の宗教というか、仏教のあり方は、神あるいは絶対と人間との直接のつながりを問題にするわけです。 キリスト教もイスラム教もユダヤ教もみな、神とのつながりを問題にしている。 ただ、キリスト教やユダヤ教の場合は神様と人間とは絶対に違うという壁を作ってしまったために、人間は神様そのもののところへは行けないけれども、神様の下で暮らせる、天国に行けるというのが、キリスト教の人たちにとってもイスラムの人たちにとっても非常に大事なのです。 この世の中で生きる、それがどうあるべきかというよりは、神様のところへ行くために、天国に行くためにどうするかというのが大事なのです。
ですから、『十五条の御神訓』になってはじめて、キリスト教や仏教に並んで、この世的な宗教であった玉光神社の教えが、神様とのつながりをもって人間が生きる道を示した、世界宗教の一つになったわけです。 そこに、『十訓』と『十五条の御神訓』の間には非常に大きな差があるわけです。 違いがある。 そういう違いを皆さんもよく心得てほしいと思います。

『十五条の御神訓』と世界宗教

『十五条の御神訓』の一番肝心なところは、神様が、こんな小さな地球だけではなくて、宇宙も自然も、太陽系も銀河系もくるんだ宇宙を創られた。 われわれが住んでいるような地球のような星も、宇宙にはいっぱいあると思うのです、人間のような生物が住んでいる星がね。 そういう宇宙を創られた神様が私たちに教えていらっしゃるのは、宇宙と人間、自然と人間が共存できるように、そして霊の世界と人間の世界とが共存して神様の世界の方へ向いていけるように霊的に成長することが大事であることを、教えてくださっている。 神様は人間、宇宙を創造し、創造した一つひとつの全てを支える大きな愛で、一人ひとりの人間、あるいは一本一本の松の木、そういうものが生きられるように、それぞれの松の木の力になり、AならAという人間に即した命として働いてくださっている。
皆の中にも神様の力が働いていてはじめて一人の人間として生きているわけですから、そういう神様の力が感じられて、それが分かるようになったら、神様のところへ真っ直ぐ向けるようになり、霊的に成長ができ、カルマも解ける、あるいは皆のものを愛することができるようになる。 それぞれの人たちについて自分と相手とが違うということがよく分かるようになるということは、互いの違いを超えたところに行っているということなのです。 そういう違いを超えたところに行ってはじめて、底からも上からもその人たちを支えたり生かしたりすることができるようになるし、皆と仲良くできる、皆を助けることができる。 それが神様の愛そのものなのです。
そういうふうに、皆が神様の愛を真似をして、宗教が、テロを行うイスラムは一番いけないとか、仏教が一番いいとか、キリスト教がどうのこうのではなくて、どの宗教も、そういう教えでないとその土地では人を導く教えとして成り立たなかった。 たとえば物があり余ってのんびり暮らせる天国のような所で住んでいる人が砂漠に行って、砂漠の宗教はだめだ、皆が仲良くするにはこうしなければだめだと言っても、そこに水がなければ、食べ物がなければ、戦争をしてお互いに奪い合うよりしようがないわけですね。 そういう所では、そういうふうな生活ができるような宗教が成り立っているわけです。
ですから、宗教はそれが生まれた所で、そこに住む人の生活が成り立つように説かれている。 日本の今の新興宗教は新興宗教で、日本の風土の中で成り立っている。 それを互いに認めあった上で、全部の宗教の教えを纏めることができるようになるのが、これからの宗教ということなのです。
そういう方向を、この『十五条の御神訓』の中にはちゃんと示してあるわけです。 皆さんもよく読んで、キリスト教はどういうものか、仏教はどういうものか、あるいはイスラムはどういうものかが分かったら、皆を受け入れられるようになると思う。 そういうのが『十五条の御神訓』なのです。 大きな世界宗教になったか、日本の小さな新興宗教で終わるかの違いが『十五条の御神訓』の中にはあるわけです。

神様とのつながりを最も重視する宗教が世界宗教

神様の愛を真似て、皆が助かるように、自分の仕事を通して人の役に立つように祈りながら働いて、イスラムが自分の宗教だけが絶対だと思う理由も理解して、――科学の場合、人間の知恵の場合はそれが有限だということを皆知っている。 例えば医学を例にとると、つい五年か十年ぐらい前までは、植物性の油は不飽和脂肪酸で、血中のコレステロールの低下作用をもっていて、身体にとってもいいと言われていた。 しかし今では、それを摂り過ぎると、結局油はどんなに飽和していようと飽和していなくても心臓の負担になってしまう、脂肪が溜まる、だから身体によくない、というふうになったわけですね。 薬でも、こういう薬はいいと言っていて、その後二、三年もしたら、その薬はだめだということもある。 そういうふうに、人間の知恵がいかに有限なものかということを科学はよく知っているわけです。
というのは、ものを成り立たしているいろいろな条件がある中で、そのいろいろな条件をみな成り立たせて、実験を行なうほどに人間の頭というのは利口ではないのです。 だから、いろんな条件があった中で一番主になっている条件を抽出しととのえて実験をして、その条件の中で成り立つ真理を求めているに過ぎない。 だから実験の道具が変わってくると、学説もまた変わって来る。 例えば原子核の周りを回っている電子というのは一定の軌道を回っている、決まっているところを回っているように考えられていたのだけれども、今では、原子核の周りをクモの巣ように電子が回っていて、今どこに電子があるかというのは確率でないと分からない、つまりはっきりとは分からないということがわかってきた。
 そういうふうに、だんだんに科学でも技術が進んでくると、人間が確かに分かるものというのは、或る確率でしか分からないことがはっきりしてきた。 大体がそうなっている、というふうに。 しかしそれを決める条件がどういうものかということはさらにまた分からない。 エネルギーひとつ掴まえるのにも、エネルギーそのものは掴まえられない。 科学は目で見るわけだから、物になっていないと捉えられない。 エネルギーそのものは見えないのです。 今私がこうして話していますが、私の声が音波として皆の耳に伝わり入っていくと、これが電気のエネルギーに変わる。 音波そのものを測るのには機械があるけれども、これは結果を見ているだけ、現象を見ているだけで、エネルギーそのものは測れないのです。 その現象やエネルギーのした仕事の量からエネルギーの量とかなんとかは測れるけれども、エネルギーそのものは直接には掴まえられない。
 そういうふうに、科学で物を見る、感覚でものを見る、それしか人間には見ようがないわけで、目で見るというのは光で見るわけですから、光のもっている、見える周波数というのは限られてくるわけです、どんなにやってみても。 電子顕微鏡で見ても、それを目で見るときには目で見られる光の周波数というのは決まっているわけだから、そこで一つの限界ができるわけです。
そういうふうに、確かなものは決して感覚では掴まえられないのです、何事であってもね。 条件がいっぱいあっても、その中の確からしいものを一つだけ取り上げて、他のものは全部切り捨てにして、それで科学は成り立っているから、今のように、或るときは効くと言っていたのが、何十年か経つともう副作用が出てきたというようなことは当たり前のことなのです。科学のお陰がわれわれの日常の生活では絶大だから、つい科学を信じるようになるけれども、科学というのはそういうふうに不確かなものなのです。 その不確かなレベルでいろいろな道具が出 来るから、それらの道具も不確かで、作った道具が一万年も二万年ももつかというと、コンピュータにしても、五年も経ったら中のソフトや機械が壊れてだめになってしまう。 長続きするものは何もない。 物はみな壊れてしまう壊れないのは魂だけなのです。 しかし、魂もいつかは壊れるのです。 壊れないのは神様だけなのです。 だから、そういう神様とのつながりを最も重視をする宗教、そういう宗教が世界宗教なのです。 今生きるのにどうするかというのは、たとえば自然に恵まれた所ではそれが成り立つ教えも、水がない砂漠ではそういうわけにいかないのです。 砂漠では、奪い合うというのが生活様式そのもので、ヨーロッパも同じだったのです、物が足りないから。 多様な宗教を全部くるめて、それら全体が成り立つように、仲良くやっていけるようにするのには、お互いに認め合って、かつ、お互いに共存できる、互いに、AはAでいいのだ、BはBでいいのだというふうに、お互いの宗教の成り立った理由をよく理解し認め合うと、互いに共感がもてるようになるのです。 神様が創られたのだから、AとかBとかCとか、キリスト教、イスラム、仏教その他互いに違いがあるように思われるけれども、その全てを包んでいるようなものが、Aの底にもBの底にもあるということに気がつかないといけない。それが今の二十一世紀、二十二世紀の課題だと思うのです、人間にとって。 それができないときには、原子爆弾を必ず使うような戦争になると思うのです。 そういうことにならないようにお祈りしなければいけない。

人間だけの宗教でなく

そういうことがこの『十五条の御神訓』の中には書いてあるのですから、よく読んで、神様と直接つながれるような信仰をもつようにしてください。ひとりの人間が神様とつながれるようになるのは非常に難しいのです。 「自分」を死なないと、神様のところには行けないのです。 皆、死ぬのは怖いでしょう? 怖くないと言っても、「今から一ヶ月間、一切何も食べるな」と言われたら、できると言ってもできない。 途中で死んでしまったらできないのです。 一ヶ月食べなくても生きていて、その上で神様の力を得て人間の存在を超えたときに、はじめて神様と一つになれるので、途中で身体がだめで死んだら、これは神様と一つにはなれない、神様がその人にふさわしいところまでは上げてくださるけれども。先日の、或る教団の指導的な幹部からの相談によると、そこでは、百日間部屋に籠もって水行をして断食をする行をするが、ここ四、五年、行中に死ぬ人が出てきたそうです。 それは、行の指導が下手くそだからそういうことになってしまう。 指導者が、身体がどんなに大切かということを知らないから、そういうことになってしまう。 身体が耐えられる限界というものがあるわけですから、そういうものをよく知った上で、身体が全うされてはじめて、その限りにおいて神様のお力がぱーっと入ってきて、神様と一つになれるのです。 途中で死んだのでは、神様と一つにはなれない。 そこも非常に大事なところですからね。『十五条の御神訓』というのはそういうふうに神様と直結をして、人間だけではなくて、自然と人間、あるいは宇宙と人間が仲良くやっていけるような教えなのです。 決して人間だけの宗教ではないということです。 そして、今のキリスト教とか仏教とかというものを超えた、一つの大きな世界宗教になる基礎がここにあるわけです。

神様から直接戴いた御神訓

権宮司(現宮司)

『十五条の御神訓』の成り立ちというのは、今の宮司様のお話では、三十歳の頃から考えてきて、それを纏められた、みたいに受け取ってしまうようなお話しぶりでしたけれども、『十五条の御神訓』を十年前に私が宮司様に呼ばれて伺った時には、「今、神様から御神言があって、御神訓を戴いたから」とおっしゃって、書かれたものを読まれました。
その後、宮司様(現名誉宮司)に、「お父さん、この順番でいいのですか。 この順番が大事に思うのですが、これは神様がおっしゃった順番そのままですか」とお尋ねしたのです、アメリカで。 すると、「おまえ、神様が言われるのを一生懸命メモして書いたのだから、そのままに決まっている」というようなお答えだったのです。
以前のご講話の中でも、「こういうふうに長い間考えてきた」というお話があったので、信者さんの中には、「十五条の御神訓は、神様が宮司様におっしゃった御神言がそのまま記されている」と理解している方もいるし、「宮司様(現名誉宮司)が長年のご修行の末に考えて書かれたのだ」というふうに理解している方もいらっしゃる。 その辺をご確認したいと思うのですが。

宮司(現名誉宮司)

それは、神様と一つになる体験を得るまでにずいぶん、断食をしたり、三年間も一日三時間しか眠らないとか、食事の量をうんと減らすとか、いろいろな行をしたわけです。 そして神様とのつながりができる。 ――それはいっぺんにはできるわけではないのです。 段階を追ってできるわけです。 その段階に従って、そこで神様とお会いする。 たとえば階段が百万段あるとすると、百段のところで神様と一つになる時には、百段の魂の次元に神様が下りてきてくださって力が入って、そこで神様と一つになる。 その時に出てきた智慧、それから一千段、五千段、六千段、百万段というふうに、その時その時に神様と一つになったところで、その段階でのいわゆるソフィアというか、人間の知恵でない智慧が湧いてくるわけです。 ですからソフィアにも段階があるわけです。
その段階に応じてだんだんに、考えたのではなくて――いつも言うけれども、人間は考えなければいけないですね、ボロ頭だから。 アインシュタインでもそうですが、天才というのは、考えているというのではなくて、神様とつながった時にそこで真理を直観するのです。 その直観をどんなに皆に分かるようにするか、つまり演繹ですね。 帰納というのは上がっていく、演繹というのは、上で摑んだものを皆に分かりやすいように下げていくわけです。 直観というのは、演繹する元のものを、百段のところへいったら百段のところで、ものの真理を掴むわけです。
一段目のところでは感覚でものを摑むから、たとえばこの鐘を目で見る時には、頭の中で、これは丸くて透明で金色で・・・と、そういうのに纏めるまで、知覚ができるまでに0.2秒ぐらい頭の中で時間がかかる。 そして、今度は、たとえばこの鐘はどういうふうにして作ったかということを、記憶の中に溜められた、知覚の内容を一般的な普遍的な知識を働かせて考える。 知覚で得た内容をそのように普遍的な知識に変えていく能力が、人間の魂の次元、カラーナの次元ではあるのです。 しかしカラーナの次元にも、たとえば仏教で蔵識というのは四十二段ぐらいに分けてある。 その段階に応じて神様とのつながりで、一つ一つの高い智慧が、直観が出てくる。 その時には「考える」のではないのです。
人間は頭をもって、身体をもって出てきたから、皆が頭の中で分かるように、つまり皆さんが習って覚えている言葉を道具に使って、直感したものを伝えるわけです。 例えば皆さんが或る音楽を聴いて非常に感激した、その感激を人に伝え表すのに、感じたものを言葉で、つまり概念で表していくわけですね。 そういうのが思索なのです。 そういうふうにしないと、一般の人にも自分にも理解ができないわけです。 直感のままだったら、これはいい、これは間違っている、これはこうしなければいけないというふうに、すぐ判断はできるけれども、それを一般の人に説明するのには言葉を使わなければいけない。 そこで限界ができるわけです。 たとえばアインシュタインにしても、神様が物を創ったのだから一切は相対的で滅びるものに違いないというので、相対性理論を考えたが、それを数式で書いた。
しかしそういうふうに、神様とのつながりができ、最終的に神様と本当の高い一致ができるようになるのには、一生や二生ではできないのです。 釈尊にしても何百回も生まれ変わってやっとできたわけです。 誰でもそうなのです。 だから、そういうふうに皆が一生のうちで神様と高い次元で一致できると思ったら、やはりそれは難しい。
ただ、一生、一生懸命やっていたら、今一段のところが千段になるかもしれない。 しかしそれは、あと百万段あるとすれば、百万段目はまだはるかに遠いわけです。 しかしその各段、各段によって心が開けてきて、神様と一つになるに従って、本当の直観と智慧が湧いてくる。 そして、もうこれを皆に教えるための教えを書いた方がいいという時期がきたので、十年前に神様が僕に直接書かせられた。 だからその順番は、神様がおっしゃった通りの順番なのです。

権宮司(現宮司)

凄く分かりやすく単純に伺うと、十年前のその日、神様が宮司様におっしゃって、それを宮司様がそのまま書き記されたのが『十五条の御神訓』なのですか?

宮司(現名誉宮司)

うん、そういうことね。 ただ、それまでには何十年かかかっている。 つまり、神様と本当に一つになるまでの段階で、いろいろな智慧を神様から授かった、そういうものがみなこの中に入っているわけです。
だから、考えたのではないのですよ。 考えて書いたものでは決してないのです。
今、オックスフォードの大学院の学生が、僕の本を読んで一生懸命に学位論文を書いていて、「神様と一つになった、神様の創造力と一つになったら、台風を止めたり、あるいは地震を止めたり、あるいは、はるかかなたの、光の速さで何百万年も向こうのことが分かるというのは本当でしょうか」と質問が来たが、それができないようでは神様と一つになれたとは言えないのです。 禅宗の坊さんが、やれ、絶対の無だの空だのと言うけれども、本当に摑んだのなら、絶対に達したのなら、宇宙も創れる力があるはずなのです。 この身体にひっついて動いている心が神様といつも一つになっている心ならば、しようと思えばできるはずなのです。 できないようでは、本当に悟ったとは決して言えない。 そういうことができない坊主がいっぱいいて、悟ったように言うが、それはただのおしゃべりに過ぎない。
勉強していろいろなことを知ったのと、実際にできるのとは違うのです。 そこが、宗教者と学者との違いですね。
分かったかね?

権宮司(現宮司)

分かります。

宮司(現名誉宮司)

皆は・・・たとえばフィリピンにドリアンといううまい果物があるのです。 この頃、アメリカで瓜みたいなキューリみたいな形で、オレンジ色で、とげのようなものがある、果物だか野菜だかわからないものがある。 それまでも見たことはあるけど食べたことがなかったので、僕はなんでも珍しくておもしろそうなものを試してみたがるところがあって、あれを買って食べてみようと思って、買ったら、ともかく外側には棘のようにケンケンがあって痛い。 中を割って食べたら、種がいっぱいあるけど、その種がまた凄くおいしいのですね。 皆は知らないでしょう? どんな味かといっても、言葉で説明しても、食べたことがないとどうしようもない。 僕が子どもの時には、バナナというのは小豆島では食べたことがなかったのですね。 バナナの味というのは大きくなって食べてはじめて分かった。
神様の世界と一つになった世界がどういうのか。 食べ物の味でさえも経験しないと分からないわけですね。 でも、なんとなく分かるでしょう? それは人間の中にそういうものが分かる魂があるから分かるのです、経験しなくても。
というのは、魂の次元ではちゃんと経験をしているのです、死んだ世界では。 ほんとうは、今だってしているのです。 ですから、そういう意味では、皆さん一人ひとりを拝まないといけないのです、偉いのだから。
ところが、自分で偉さが分からないでろくでもないことばかり言うから、アンポンタンじゃないかなと皆に思われる。 しかし本当は、神様から戴いた『玉の光』というか、丸い魂を皆もっている。 それがあるから、僕が神様のことを話しても、なんとなく分かるのです。 カッと摑めないけれども、なんとなく分かる。
しかし魂と肉体との間につながりがあり、魂があって肉体を創り出し動かしているのだけれども、肉体にひっついて動いている意識は魂を直接摑めないのです。 昔で言うと、天皇と民衆とは会えなかった、偉い人がいるということがわかるだけで。 それにたとえると、皆の頭にひっついて動いている意識は、天皇様が自分たちを治めてくださっていると思っているけれども、会ったことがないから天皇自体は分からない、というふうな感じだな。 しかし皆の中には神様から戴いた魂が本当はあるから、僕が言うことも分かるのです。
だから、自信をもつようにね。 ヨーガの行あるいは宗教の目的は、自分の中に働いている神様の魂、神様の力を自覚できるようにすることが宗教の目的なのです。 そうすれば、神様の愛、神様の智慧、皆を生かし支える、そういうことができるようになるのです。
そういうことを退けてしまう科学や資本主義に皆溺れてしまって、つい、人間を物のように思うから、殺しても良心の痛みも生じないようなことが起きるのが今の世の中ですね。 だけど、人間は本来魂をもっているから、悪いことをしたら心の痛みができるはずなのです。 できないやつは悪魔ですね。 ところが今は、そういう悪魔のような心が蔓延りやすい世の中ですね、物の中に落ちているから。 皆さんは物に落ちないようにね。

(付)

奥様

 ご講話のお時間が延びて申し訳ないのですが、十年前のあの朝、『十五条の御神訓』を伺わせて戴いた時に、私は、ああ、長年宮司様がおっしゃっていた御神訓を、今朝とうとうこうして戴けて有難く存じました。 しかし、権宮司は非常に感激して、「こういう有難い御神訓を戴いて本当に有難いです」と、涙ながらに御礼申し上げまして・・・。

宮司(現名誉宮司)

 そういう点で本当に権宮司は僕の子どもというか、神様の子どもというか、神様のことがよく分かるのだと思うのです。 たとえば、まだ一万段のうちの三千段ぐらいのところでうろうろしているかもしれないけれども、中身は一万段のところをちゃんと摑んでもっている。 もうちょっと「自分」を捨てられるといいのだけれどもね。

奥様

 それからずっと、権宮司はお祭りの時に皆さんで『御神訓』をお唱えさせていただくようにしてきました。 また、皆さんのご相談をお受けする時にも、『御神訓』を元にしてご相談にお応えできるようにと、斎官一人ひとりをテストしながら、『御神訓』の暗記ができるように指導してきました。 神様にも宮司様にも本当に申し訳ないのですが、今年が十年目というのを私はすっかり忘れておりました、宮司様もお忘れだったようですが。

宮司(現名誉宮司)

 僕は時間を超えているから(笑)。

奥様

 『十五条の御神訓』がどんなに大事かということ、『御神訓』を戴いたことがどんなに有難いかということをよく理解して、今日のお祭りをさせていただくように運んでくれて、皆さんにもご理解いただけるようにお祝詞も現代語で書いて、宮司様にこの『御神訓』の意義を皆さんにお話しいただけるように運んで下さった権宮司に、ここで皆さんに代わってお礼申し上げたいと思いまして、お時間を頂戴しました。 有難うございました。

宮司(現名誉宮司)

 そういう意味では本当に権宮司が、皆さんと神様あるいは僕との間をいつも取り持って、皆さんに分かるように努めてくれているように思います。 僕はどっちかというと、神様の方に向いて、あるいは学問も真理を求めて、皆がぐちゃぐちゃ言うのはどっちでもいいと思って、一生懸命自分で歩いていくほうだけれども、権宮司は皆の方へ向いて、神様の教えを分かりやすくしてくれる。 他の日本の新興宗教のように、『十訓』のような道徳を主とした教えを説くというのではなく、実際に神様や絶対のところに心を向け、そっちと自分ができる限り一つになりながら、そっちにだけ向かないで、皆の方にも向いて、皆もよく理解できるように努めてくれている。 それがやはり神様が権宮司を二代目、三代目として選ばれた大きな理由だと思うのです。

奥様

 今までには数人の方から、「御神訓はこういう順序の方がいいのじゃないんですか」とか、「順番を少し変えて印刷なさったらどうですか」とか伺うこともあったのです。 権宮司にはもっとそういうお尋ねがあったのかもしれません。 そういう点についても、自分からのご質問という形で、宮司様から皆さんにご説明いただけるようにいつも気を配ってくれて、その点も有難いと思っております。

宮司(現名誉宮司)

 この順番をよく考えてごらんよ、人間の頭で考えないでね。 御神言のあったとおりに書いたのだから、意味がある、深いご神意があるわけだから、人間のボロ頭で考えて、順番がどうのこうのと順番にこだわらないようにね。
では、今日はこの辺で。
(了)

「光の便り」第207号より

十五条の御神訓 〜瞑想行、超作、教えの三位一体〜

権宮司(現宮司)講話

*十五条の御神訓~瞑想行、超作、教えの三位一体〜

上から下まで指針を見失っている世界

権宮司(現宮司)

 前回か前々回ぐらいのお祭りで、「あれ?(祝詞奏上の声が)合ってないぞ」と気がついたので、お祭りの後で、「僕、(奏上のテンポが)速かったかね?」と泰子に聞いたら、「若先生、そりゃ速いですよ、お年寄りはあのテンポでは無理」と言うから、「じゃ、今日はゆっくり奏上するように気をつけよう」と思っていたんですが、だんだん僕も集中してきて、また速くなっちゃったのか、皆さんと合わないから、「あれ、また速くなっちまったのかな」と思ったんですが。
僕も、今月は、「世界平和のお祈り」のお祈りとして、お祭りのときに特にお祈りしたいこともありますので、集中して『玉の光』をあげておりますと、だんだん皆さんのことを忘れてテンポが速くなったのかもしれません。 集中すると皆さんと合わなくなるのは、多分僕の集中が身勝手なんでしょうな・・・・・・。
しかし皆さんも、斎主である僕に合わせてくれればそれでいいんですけど。 僕が先達ですからね。
僕が皆さんに合わせようとして、合わせることに神経を使ったら、大事なお祈りが、皆さんに合わせるための祝詞奏上になっちゃう。 僕がもうちょっと高い(境地の)ところにおって、集中をすることによってお祈りが深まり、自然に皆さんがそれに合ってくるというお祈りが僕にできればいいんだけれども、まだそこまで僕は至ってないわけですね。
今は、日本のような先進国でも、中国のような伝統のある国でも、北朝鮮のような独裁国家でも、韓国のような国でも、国のトップから庶民に至るまで、どうしたらいいか本当に分からない。 誰も分からない。 庶民とトップの間に立つエリート層も先が全く見えていない。 何をどうしたらいいのか、どういう方向で生きればいいのか、見えていない。 それが皆さんと合わせられない僕の姿であり、僕に合わせられない皆さんの姿であるわけで、同じようなものですよね。

私の、進歩できない瞑想行
 しかし、昔のように宗教家が政治をするわけにもいかないでしょう。 私たち一人ひとりの救われと、国のあり方、あるいは国を超えた国際のあり方、あるいは地球的なあり方の両方を指し示すような宗教のあり方ってなんだろう?とよく思うのですが、それは未だ僕にはよく分からないわけ。 そのためには私自身が、――人類の皆がというためには、まず私自身が霊的成長しないと、要するに何か進化しないと始まらないわけで、私はそのためにお行もしたりしているわけです。
十五歳ぐらいのときから宮司様のお弟子さんに習ってクンダリニーヨーガを始めて、一生懸命精神集中、呼吸法という行法をもっぱらやってきたわけです。 一生懸命やったのだけれども、少しも自分が広がらない。 相変わらず「自分」に陥ちた状態で、十五年、二十年お行をしてきて、何かが自分は間違っているなと思いました。 そして、宮司様は「超作」とおっしゃるものだから、行だけではだめなのだな、と。 宮司様のように、生まれながらにしてなにか非常に突き抜けた魂をもって生まれてきた方は行だけでいいのかしらないけれども、僕のような凡夫は行だけではだめだな。 超作をせにゃいかん。 だけど、超作をどうしたらいいのか、分からないんですね。 「夢中になってやれ」という教えだけど、僕の場合は、夢中になると陥ちるだけなんです。

お行と自覚~意識化

宮司様(現名誉宮司)が今から十年ぐらい前、新日本宗教団体連合会(新宗連)というところの、宮司様(現名誉宮司)は業界団体の役なんてしたくないタイプなんですけど、「ぜひに」と言われて理事になられた。 だけど、行く気がないから、理事会の最初から「おまえ、代理で行ってこい」と言われて、それで新宗連の理事会に出るよう(になって、それ以来一度も宮司様(現名誉宮司)はご自分は出られないで、僕がずっと代理で出ていたのです。
それがご縁となって宗教間対話というのをするようになって、ですから、僕の宗教間対話の活動は半分近くは新宗連ですね、今でも。 いろんな他の活動も増えましたけれども。
その新宗連の加盟団体の中に、仙台の大和教団という教団がありまして、あるとき、新宗連の全国総会というのが大和教団でありました。 そのときに、大和教団の教主様が、「本山先生――これは僕のことですよ。 職員室みたいにお互いに“先生”と呼び合うのです――、あなたのお父様の宮司様(現名誉宮司)は、三十年くらい前にうちで講演なさってるんですよ」とおっしゃるわけです。 その話、聞いたことないなとその時は思ったんですが、実は著作集の第二巻に『ヨガと超心理』というのが収録されています。 それには三つ講演録が入っていて、その最初のお話が大和教団でなさったお話なのです。 大和教団は神道系の行で、出羽三山系の教団なのです。 そこに神道系の玉光神社の宮司さんが来てヨーガの話をするのだから、やはり当時としては非常に変わった宮司(現名誉宮司)さんですね。
その大和教団でなさった講演の中で、宮司様(現名誉宮司)はこんなお話をされているのです。 よく宮司様(現名誉宮司)がされる話で、お好み焼きを買いに行って汽車を止めたという話ですが、それは皆さん何度か聞いていますよね、よく話されるから。
宮司様(現名誉宮司)は五~六歳のころ、大阪に住んでいる、清光先生の兄にあたる伯父さんのところへ行って、お小遣いを一銭か二銭もらうとお好み焼きを買いに行ったんだって。 小豆島にはないから、おいしくて、夢中で食べたらしいんですね。 ある日、またお小遣いを二銭か一銭かもらってお好み焼き屋に行った。 途中の電車の踏み切りのところで、止まっていた大勢の大人の間をかいくぐって、パッと踏み切りを渡っちゃった。 そうしたら間一髪で死にそうになっちゃった。 気がつくと、急停車した機関車が目の前にあって、ちょっとびっくりなさったそうだけど、お好み焼きのことで頭がいっぱいで、駆け寄る人々から逃げてお好み焼き屋に行ったと、そういう話をそこでなさっている。  どうしてそんな話をされたかというと、宮司様(現名誉宮司)はそこで、人間は自分の欲求とか考えとかに陥ち込んでいると、陥ち込んでいるというのは、それが自覚できない状態で、自覚できないままにその欲望とかある考えに執われて、自覚していないから、そういう欲望とかあるいは考えに自分が支配されている。 自分のもっている感情や自分のもっている考えに自分自身が支配されちゃっているのです、自覚されないままに。 そういう状態では行はできませんよ、神様の声は聞こえませんよ、という話をされている。 そして、自分もいろいろあちこちでおいしい物を食べた今でもお好み焼きはうまいなと思うのは、それも執われの一つですね、という話をなさっている。

原註:「おちる」は通常「落ちる」という字を当てるのであろうが、十五条の御神訓に倣って「陥ちる」と記す。

しかし、執われは執われでも、「執われている」ということが分からない執われと、執われているということが分かっていて、それから離れようとすれば自由に離れられる執われとは、同じ「執われ」といっても、違いますよね。
大事なことは、「自覚する」とか「意識できる」ということなのです。お行をすることによって、自分の内に働いている、自分を突き動かしているもの、それが感情であったり、あるいは執われた考えであったり、あるいはある種のイメージであったりするのだけれども、そういうものが、行が進むにつれて、無自覚な状態から自覚されてくる、自覚されない状態から意識されてくる、そういう話をなさっているのです。 それは「ヨーガの八支則」の最初の道徳的訓練である「ヤーマ・ニヤーマ」のところでお話しされています。

原註:ヤーマ(禁戒)とは非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪の五つである。ニヤーマ(勧戒)とは清浄、知足、苦行、読誦、自在神への祈念の五つである。

つまり、自覚される、意識されるということは、まずその感情や情念や欲求、あるいはイメージ、あるいは考えなどから離れる第一歩で、それが自覚されない限り、離れようがないのですね。

自分を自覚しないお行~自分というものが問われないお行

僕が一生懸命呼吸法とか精神集中とかを十五歳から三十歳前後ぐらいまで――それまでは僕はそれしかしていないですから――、十五年以上はもっぱらしていたんですけれども、いつも自分が陥ちている状態にあることに気が付かない。 つまり、なんで呼吸法をしているのか、なぜ精神集中をしているのかということが問われないまま、お行をしていたのです。 僕のような凡夫ですと、お行の中でそれに気が付くのは、それを問うのは難しい。
 宮司様(現名誉宮司)は大和教団でのご講演の中で、「雑念は抑えてはだめだ。 抑えると、せっかく意識に上ってきたものを抑えることになり、それはまたそれを無自覚の方向に追いやることで、それでは行にならない。 雑念は湧けば湧かしておけばいいのだ。 ただ、雑念が湧いても、それに執われちゃだめだ。 湧かしっ放しにして、でも、執われていることに気が付いたら、ハッと気が付いてまた精神集中に戻ればいいんだよ」という趣旨のことをおっしゃっている。
これは難しいのです。 なぜ難しいかというと、雑念が湧いても、たいがいの人は雑念が湧いたことに気が付いていないのです。 なぜなら、雑念の世界に巻き込まれているからです。
夢をみているときは、皆さんは夢をみていると気が付かないでしょう。 それは夢のもつイメージ世界、感情の世界に巻き込まれているからです、自分というものが。 自分の感情、自分のイメージに自分が巻き込まれているから、夢をみていることに気が付かない。 目が覚めて、ああ、あれは夢だった、と思うだけ。
それと同じで、大体は雑念が湧いているときは、その雑念を味わってそれに巻き込まれているから、ハッと気が付くことすらできない。 ハッと気が付いても、それから離れられない。 ハッと気が付いたら、それを瞬間的に抑えるんですよね、僕たちは。 それを、湧かしっ放しで、それを離れてみているということはなかなかできない。 ただ、雑念はいつまで経っても止まない。
なぜかというと、この雑念のことに気が付いたとしても、その雑念を湧かしている自分の情念、欲求、あるいは感情、あるいは固定的なものの見方、あるいは自分が正しいという思いとか、あるいはこんちくしょう!という思い、いろいろな思いがあって、それが雑念を湧かしているのだけれども、そっちの思いまでにはなかなか目が向かないから、表の雑念ばかり見ているから、いつまで経っても雑念がなくならない。 雑念に気が付いて離れようとしても、その雑念の元になっているものに気が付いていないから、どうしてもその雑念から離れられない。

超作で乗り切ろうとするものの

僕は十五年間ずっとそんな行をしていたような気がします。 宮司様(現名誉宮司)は超作だとおっしゃるから、そうか、瞑想行だけじゃだめなんだな、日常の生活の中でお行をしないといかんのだなと思っても、お行と日常の生活の中の行為が自分の中で結びつかない。
これをどういうふうにしてお行をし、超作をしたらいいのだろう?と思い悩んでいるときに、いつだったか、何の話からか、今そこにいる柏倉由美さんが、「信仰の世界に入ったら、今まで非日常と思っていたお祭りの場とかそういうものがだんだん私の中で日常になっていく。 逆にまた、信仰とは違う場である日常の場がお行の場のような、そんな日常の世界が非日常的なものになっていく」というふうに言われた。
柏倉さんがどういうつもりでおっしゃったかよく分からないけど、僕にとってはそこで非常になにかピン!とくるものがあって、そうか、日常の非日常化、非日常の日常化というのはおもしろいなと思って、それからなにか日常生活で超作しようと努力して、その中で得た何か、あ、これが自分から離れることか!という、何かそういう感触を得たら、それをお行に生かすようにしたのです。 そうしたらお行がそれにより深まるようになってきた。 深まって、ああ、これか、自分から離れるというのはこういうことなのかと、言葉にし難いところをまず摑んで、それをまた日常生活の中で生かすというふうにして、日常生活とお行とをかみ合わせるようにしたらいいのだなと、だんだん思うようになったわけです。
しかし、やはり限界がある。 なんで限界があるか。 それは「自分の知恵」だから限界がある。

『十五条の御神訓』と日常生活、そしてお行

今から十二、三年前(編註 平成七年)に、私たちは『十五条の御神訓』を頂戴したわけです。
ある朝、十一月十五日の朝でしたけれども、「宮司様(現名誉宮司)が呼ばれているから、来なさい」と言われて、合同御祈願の日だからそのための準備をしていたら、「とにかくすぐ来なさい」と言われたので、Tシャツと短パンのままで行ったのです。 そうしたら宮司様が、「今、神様から『御神訓』を戴いたのを、今から読むから、聞け」と言われて、『十五条の御神訓』を初めてそこで伺ったのです。
なにか、そこで僕はえもいわれない、・・・・・・あれを感動したと言うんだろうか、なんともいえない気持ちになって、母と共に拝聴しながらはらはらと涙が流れたが、その涙がどういう涙か自分でも未だによく分からない。 ただ、その一方で、「えらいことになったな!」とも思ったのです。 非常に重たいものを背負わされたような気もしたんですね。
それで思い出したのですが、『十五条の御神訓』を頂戴した前の年の前半のころのお祭りの後で、宮司様(現名誉宮司)が「御神言があったよ」と。 「今年の十一月に、神社にとっても、研究所にとっても、学会にとっても、大学院にとっても、良いことが起きる」と。 それで僕は、そのとき自分は悟りを得るのかな、あるいは念願の学位が取れるのかな、と思った、調子いいから。
でも、その年の十一月は何も起きなかった。 そうしたら次の年の十一月に『十五条の御神訓』を頂戴したのです。
最初は『十五条の御神訓』は、僕にとって、平たく言うと、神棚に飾っているような状態、要するにお祭りのときに唱えるぐらいの御神訓だったのだけれども、でも、急にある時から、一年ぐらい経ってからか、『十五条の御神訓』について常に考えるようになった。 そして、最初のうちは、哲学的にというか、屁理屈的にというか、『十五条の御神訓』を論理的に考えたのです、一生懸命に。 何日も、来る日も来る日も。 でも、それだけでは『御神訓』は身に付かないのですね。
『十五条の御神訓』に教えられて、『十五条の御神訓』に導かれて日常の生活を暮らすようにしますと、そこでハッと、「自己否定というのはこういうことか!」というのが分かるときがちらほらとあるのです。 それは皆さんにも必ずあると思います。 そのときに、「ああ、これか!」と思って、「ああ、これか!」でもう一回お行をするわけです。 それでお行をすると、お行だけ一生懸命にしたときと違う自我の破り方というのを体験するのです。 それで、「ああ、これか!」がさらに深まって、その深まったものをもって、もう一度日常生活に戻って、日常生活でもう一度『十五条の御神訓』に従うわけです。 そしてやっと、ああ、こういうふうにしていって『十五条の御神訓』を身に付けていくことで、信仰の道、霊的進化の道というか、要するに宮司様が「この道を行け」と言われる道を歩む方法を、やっと自分なりに見つけてきたなという気がするのです。
『十五条の御神訓』は、どのようにそれに近づいていくか。 別に「この方法が一番いい方法ですよ」というのは特にないのだけれども、それでも、皆さんも知っているように、僕が『十五条の御神訓』を繰り返し唱えるのは『十五条の御神訓』に近づく一つの方法で、どれか一条を選んで、それについてそれこそ自分ができる最高の理性を使って、理性以上の理性を使って、それについて深く考えるのも一つの方法です。 『十五条の御神訓』について純粋論理的に考えるのも一つの方法です。
僕自身が実践する中で、『十五条の御神訓』に近づく最も良き方法は、日常生活の中で常に、『十五条の御神訓』あるいは『玉光教十訓』と合わせ二十五カ条が、いつ、どんな時でも頭に浮かぶように訓練することなのです。
アメリカでCIHSの理事会というのがあって、僕も年に一回か二回アメリカに行くわけです。 結構、金と時間と労力を使って行く。 会議を聞いていても、英語で話しているから内容がよく分からないし、なにせ僕が意見を言っても、理事長で学長の宮司様がバーンとおっしゃればそれで決まっちゃうし、「ばかばかしいな、こんなんでアメリカまで来なければよかった」とか思うことも間々あるわけですね。
そういうふうに思ったときに、ハッと自我が動いた瞬間に、『カルマを成就して 我なき神我に還るべし』という言葉がすぐに浮かぶようにする。
そうすると、今わざわざアメリカまで来てここに座っているのも何かの縁であり、果たすべき役目があって来ている、これを果たさずしてどうして「我なき神我に行ける」のか。 あるいは、今そういう思いが生じてカルマを果たせないのはなぜかというと、「我なき神我に至る」という気持ちがなくて、「自分」というものをもっていて、「ああ、どうせ学長が決めるんだから、俺は関係ねえぜ」という思いが起きるからだ。 「我」という思いを捨てて、学長だ、後継ぎだという区別を捨てて、神様のお役に立とうと思って今ここに一緒にいるつながりを感じれば、そういう我を捨てられる。
今日の祭典で泰子が『祓詞』を奏上したときに、いい『祓詞』だなと思いました。 最初は泰子の声に集中していて、泰子の声にだんだんなっていくような感じがして、そこでもう一歩踏み込んで、泰子だ、私だ、というのではなくて、『祓詞』があって、そこに泰子と私も一緒にいる、というふうにだんだんなる。
ところが『祓詞』が終わって、泰子が献饌しているときは、僕も、今日のお祭りの後に、皆に何か話せと宮司様に言われたので、何を話そうかなと考えたら、泰子が献饌しているだけで僕は僕になってしまった。 しかし、それじゃだめで、斎官なのだから、同じこの御神前で一緒にお仕えしているのだから、私がやってる、泰子がやってる、という状態ではお祭りにならないわけです。
そういうときに、自ずと『御神訓』を思い浮かべるようにするわけです。 そういうふうに習慣づけている。

『自己に陥ちる者は 人や物を傷つける』

私は今お祭りをさせていただいているということを忘れて、自分のことを思っている。 お祭りは形の上では粛々と進んでいるけど、斎主である僕の不心得のためになにかが傷ついていると、神様に申し訳がないことだ、と。
こういう立派な場面ではなくて、日常の世の中で最もカチンとする存在は大体家族ですが、私の場合家族は一人しかいなくて、女房ですね。 大体女房の言うことなんて、どれも気に入らないことなんだけど(笑)、とくに毎日同じようなパターンがあると、だんだん、最初からばかばかしくなっちゃう。 そこでふと、
『人の世に完全といふものなし』
僕は自分が正しいと思っていることが完全だと思っている、その完全な僕と違うあいつは不完全だと思っている、しかし、思えば、自分も不完全だし、不完全な人間が相手に完全を求めるのはおかしい。 お互い不完全だな、と。 そうしたら許す気持ちが出てくる。しかも、人は皆違うんだ。
『夫婦和合して成らざることなし』
とあるけれども、違うものだからこそ、それが和合すると、一人ではできなかったものができるのだな、と。
しかも夫婦だけではなくて、たとえば一緒に誰かと仕事をするとき、――具体的には、中野さんなんか僕と違って結構クールなんだよね、僕はわりとウェットな性格なんだけど。 ときどき彼のやり方にカチンとくるときがある(笑)、自分と感覚が違うから。 そのときに、いや、待てよ、
『夫婦和合して成らざることなし』
違うものだからこそ、そこで力を合わせれば自分ではできなかったことができるのだな、と。
私たちはお行だけで自己から離れられるほどの魂をまだもっていないわけです。 ですから日常の生活とお行と、この両方をやって、しかもそれがばらばらなのではなくて、お行が日常の生活に生かされ、日常の生活の悟りがお行に生かされるというふうにしないとだめなのです。 でも、そこで、自分の知恵だけでは限界があるのですよ。 どうしたって限界がある。 そこで私たちに神様は『十五条の御神訓』を下さるわけです。
それは神様の智慧だから、いつだってその神の教えに基づいて、『十訓』を入れてもたった二十五カ条の箇条書きに、人生の千、万、十万とある場面の全てを、その二十五カ条で律して生きていこうとして、いつでも『十訓』『十五条の御神訓』が頭に浮かべば、それは自分の知恵ではなくて、神様の智慧だから、皆さんを導いて、皆さんの殻を破って戴ける。 そのようにして日常生きれば、そこで得た智恵をもってまたお行をすれば、自我がなくなっていくのだろう、と。 そうしたら、
『己だになくば神の御声を聞き得べし』
私も生かし、社会も生かす道が、そこに見えてくるのではないかなと思うわけです。

救いのお言葉としての『十五条の御神訓』
『十五条の御神訓』はただ真理の言葉ではない。 『十五条の御神訓』の最初の三カ条、一番最初は、
『神は宇宙 霊界を創り 生かし賜う』
これは神の創造力ですね。
『神は 愛と智慧をもってすべてを生かし 進化させ賜う』
これは神の愛と智慧。 そして、この愛と智慧は万物を生かすという創造力であるだけではなくて、万物を進化させる、われわれを救うものである。 そういう神の力、神の働きを、最初の二カ条で、愛と智慧と創造力、この根本は創造力、それを示されているわけです。
その後にいきなり命令形で
『神の愛を感得し 真似すべし』
つまり愛と智慧と創造力、あるいは順番からいうと、創造力と愛と智慧という、神様のその三つの働きを示された後、私たちに、まず神の愛を感じ取って、それを真似して行なえ、と言われている。
私たち信徒にとっては、『十五条の御神訓』を下さっているということは、神の愛なのです。 神には際限のない方便の力があるのですね。 方便というのは「われわれを救う手立て」ということです。 百人いれば百の手立てが必要、千人いれば千の手立てが必要ということ。 そういう「方便の力」というのが最高の智慧なのです。 決して抽象的な智恵が最高の智恵ではなくて、千人いれば千の、万人いれば万の救いの手立てがあるのが最高の智慧なのです。 それがたった『十五条』の中に、千も万も十万もの方便がそこに詰まっている。 それをわれわれに下さったのが神の救い、神の愛ですね。 それはだから単なる真理の言葉ではないのです。 われわれにとって「救いの言葉」なのです。

原註:「大日経」によると仏の智慧の究極は方便であるという。 また、唯識の説によると、物事をありのままに観察する智慧や、すべてのものの平等性を知る智慧は悟りの前の段階で生じるが、一切衆生を救済する方便の智慧が生じるのは悟りを得て成道したときなのだという。 法華経でも仏の方便力が強調される。

たった二十五カ条でどうして千も万にもなるんですか、と思うかもしれないけれども、日常生活の中で常に『十五条の御神訓』が思い浮かんで、何かハッと自我が動いたときに、『十五条の御神訓』にハッと気がつかされるように自分を訓練すれば、『御神訓』がどんなに深い甚深な内容をもっているか、それは自ずと分かります。 そうやって導かれようという意識がある限り、『十五条の御神訓』に必ず導かれます。
しかし、日常生活での精進だけではちょっと足りないので、忙しい人もちょっとお行をする。 『十五条の御神訓』によって日常の生活の中で悟らされたほんの小さな神の智慧の種、それをもってお行をしたり、祈ったりすると、その種がお行や祈りの中で育つ。 その育ったものを持って日常の生活に入って、もう一度『十五条の御神訓』と向き合うのです。

進歩できないお行の原因と、それを乗り越えるための方法

僕がクンダリニーヨーガ、チャクラの精神集中あるいは呼吸法を一生懸命したのは、平たく言えば、超能力が欲しかったからです。 超能力をもつというのは、このお宮では一目おかれるわけです、当たった、治った、で。 それが欲しいから、一生懸命やっていた。 そういう「欲しい自分」を一度として問わないままに十五年やっているから、いつまで経ってもだめだった。
自分を見抜く、――宮司様(現名誉宮司)の仙台でのお話によれば、自分を自覚して、自分を意識して、それから離れる。 だけど、智恵の足りないわれわれにはどうもそれは難しい。 われわれは凡夫だから、宮司様と違うのだから。 でも、そんなわれわれに『十五条の御神訓』を戴いて、確かに僕のような凡夫でも、日常生活を『十五条の御神訓』『十訓』合わせて二十五カ条に導かれようと習慣づけて努力すれば、確かに前よりは少しだけ殻が破れてきたように思います。
最初は空回りでもいいんですよ。 無理矢理でもいいのです。 『十訓』『十五条の御神訓』を思い浮かべて、今の自分を『十訓』『十五条の御神訓』に基づいて振り返ってみて下さい。 最初はこじつけだったり、空回りだったり、しっくりこなかったりでいいんですよ。 ただ、そういうふうな努力をしていれば、必ず、『十訓』『十五条の御神訓』の、言葉の奥にある中身にだんだん近づいていけるように思います。
今日はこれで終わります。

宮司(現名誉宮司)のお話

宮司(現名誉宮司)

 なかなかいい話だったよ。 真面目に真理を、神様の教えを理解しようと思って努力している。 それからさらに超えてそれを体得しようと努力している。 ――理解と体得とは違うからね。
理解というのはどちらかというと観念で、頭の中のバーチャルな一つの概念構成にすぎないけれども、体得しようというのは、日常の生活を生かす、日常の生活で皆を助ける、自分もそれで成長するというのが真理の体得だから、そういうふうに今、一人の求道者として夢中になって、血まみれになって努力している権宮司の姿がよく分かりますね。
幼いころ一博がいつも言っていたのは、他の兄弟はみな神様から「光一」とか「玉城」とか「泰子」とか「光生」という、神様にちなんだ名前をもらったのに、なんで僕だけが「一博」というふうに、神様からの名前をもらえなかったのかなと・・・・・・(笑)。 それが、「もう一人の博」というふうに理解をするようになって、大いに納得したみたいですね。 「もう一人の博」になるように、今一生懸命に努力しているんですね。 そうすると、「もう一人の博」だったのが、「元の博」と一つになれるようになるよ。 そういうのを待っている。 待っているというよりは、助けながら、待っているんだけど、もうちょっとだよね。
「考えていく」というのは、禅で言えば、曹洞ではただ坐るだけ、雑念が湧いてきてもそれを放ったらかしておいて、そういうものに執われない状態をだんだんつくっていくというのが曹洞の坐り方ですが、臨済というのは、一つのこと、無なら無とは何か、というふうに考える、人間とは何か、というのを考える。 考えることによって、考えることだけになってしまうと、いつの間にやら、考えている自分をポッ!と超えられるようになるのです。
どっちかというと、権宮司はそういうタイプですね。 そういうタイプの人はそれでやった方がいいのです。 無理になにも考えないで、曹洞のようにならなくていい。 曹洞であろうと臨済であろうと、行き着くところまで行って、自分が、人間というのは本当はなにも持っていないのだ、みな神様から来るものが全部であって、自分には何もない、というふうに自覚ができたら、悟りの手前まで行けるわけです。
そういうのが自覚ができたときには、まだ「自覚している自分」がある。 それも捨てないとだめなのです。
赤ん坊を見ていると、自然のままですね。 自覚がない。 自分が何か、も何も知らない。 神様に生かされたままですね。 それがだんだん大きくなって、周りから「お前が言うのは間違っている」とコツンと叩かれたりして、だんだん「自分」ができてくるわけですが、そのできてきた自分が、身体をもっていて、豊かな生活をしたいというので、今度は「自分」の中に陥ちてしまう。 自分の欲望や考えや感情に陥ちてしまって、インターネットでそれが今ワーッと世界中に共通に、――人間の感情というのはそんなに変わるものではなくて、世界中共通ですね、金を儲けたいという欲、その欲が資本主義のもとで金を儲けることだけに夢中になっているような守銭奴が、今世の中にいっぱい出来ている。 それが今の世の中です。
そういう守銭奴になった自分にだんだん気がついてこないと、世の中はうまくならない。 人間というのは物ではない、ということがよく理解できるようにならないとね。 そういうことを政治家や経済の人たちも分からなければいけない。
政治そのものが今混乱しているわけですね。 今までの資本主義ではもう世界は成り立たない。 国の大事なセキュリティの問題とかそういうことまで、投資家が持っている金でそれを買い占めよう、権利を買おうというような時代になってきた。 国そのものが金で、要するに株の金で動かされるような気配になってきた。 そうなると国は自分を守らないといけない。 秘密が漏れたのでは国は守れないからね。
ということは、何でもかんでも自由に金に換えられると考えていた資本主義が、自然に、国の秘密、国家の存在を脅かすようになってくると、それは規制をしないといけないことになる。 そういうふうに、資本主義が、勝ったらいい、儲けたらいい、競争したらいい、というふうな一つの理論に成り立っていたのが、今、いろいろなところで規制をかけないと、存在が危うくなってきた。 つまり資本主義そのものが規制をかけられるような状態に、今変わってきたわけです。
こういうことについては、もう五~六年か、もっと前から、アメリカ流の資本主義はあと五、六年か十五、六年したらだんだんに壊れる。 今の、自由競争の上に成り立つ資本主義を規制をするようなものが出てこないとだめだと、言い続けてきたのですが、今やっとそういう問題が出てきた。
どうしたらいいか。 それはやはり規制だけではどうしようもない。 人間はいったいどういうものか、ということがその次にこないといけない。 それが次には、教育の問題、道徳の問題、宗教の問題、それが間もなくだんだん出てくると思うのです。
今日の権宮司の話は、なかなか、真面目に一生懸命に、自分を捨てる、超作をするのにどうしたらいいか、自己否定はどうしたらいいかと苦闘している、本当に真剣な話でした。 毎月根府川にも月に三日ほど行って、朝から晩まで坐っている。 やはりそういう真剣な努力がないと、進歩、心の成長、魂の成長、それが現実を引っ張って動かしていくということができないと思うのです。 そういう真面目な努力の過程というか、そういうのを聞くと、ああ、よかったなと思って、感動しますよね。 皆も大いに努力をするようにね。
「神は宇宙を創り、支えて守って下さっている」という『十五条の御神訓』の最初の一つが、もし、よく分かっていたら、この頃世間では、或る預言者が、「八月十五日になると、地軸が動いてあちこちで大きな地震が起きて、ロサンゼルスや東京も海底に沈む」と言っているそうですが、そういうのをすぐ信じて、うろたえたりはしない。 ちょっとした霊能者の言うのを、信じやすい人は、すぐ信じる。 そういうときに、「神様が宇宙を創って下さって、人間を創って下さって、守って下さっているのに、そんなに人間がいっぺんに死んでしまって国が亡びるようなことをなさるはずがない」と、『十五条の御神訓』の初めが本当に分かっていれば、すぐ思うはずですね。
思えないのは、『十五条の御神訓』が分かっていないのです。 そんなことはあり得ない。 そういう流言蜚語が大っぴらにインターネットで走り回って、人類の何人か知らないが、信じて、それも案外とインテリが信じる。 妙な世の中ですね。 そういう人は、神様、あるいは本当の宗教というものを知らないのです。 そういうのを知るために権宮司が一生懸命努力しているのが分かって、とてもよかったですね。

奥様

 もう一人の斎官の泰子さんも、お宮で夜遅くまで信者さんのためにお祈りを一生懸命にさせていただいて、遅くなって家に帰ると、それを待って、地方の信者さんや東京の信者さんが電話でご相談やら訴えごとをされて、十二時、一時となる日もあるようです。 私だったら、「もう遅いから寝ます」と言うと思うのですが。 けれども斎官も人間ですから、思いやりをもって、あまり夜遅く、十二時、一時、二時に電話をしないでいただきたいな、というのが母親の気持ちなのです。
しかし兄妹で一生懸命神様のお道を進ませていただいて、有難いなと、今日も改めて子どもたちに感謝しました。

宮司(現名誉宮司)

 このお宮は、泰子はどちらかというと、お代様のような役目だね。 一博は、二千年ぐらい前にインドで私の弟子だったときの、真理を求めていく、理論をつくっていく、そういうタイプの求道者というか、宗教にはその両方が必要ですが、その両方が有難いことにお宮に具わっている。 そして、斎官の浅田さんや杉江君や、世話人の湯浅陽子さんや渡世さんや若い世話人、皆が一生懸命にしてくれているから、このお宮は教団としては小さいが、神様のお教えが世界中に広がっていっているわけです。 本になって世界中に広がっているし、先日も日本で活躍している人たちがみえて、本を読んで、大神様の教えを自分たちの宗派の教えに合わせながら教えている、と話していました。 禅宗なら禅宗の教えに合わせながら。 そういう方たちが増えてきたように思います。
真理というのはそれでいいと思うのです。 真理は誰の真理でもない。 『十訓』でも『十五条の御神訓』でも、神様の教え、真理であって、僕の教えでもないし権宮司の教えでもないし、お代様の教えでもないのです。 要するに真理は真理なのです。
ちょっと長くなりましたが、それでは、今日はこれでお終いにしましょう。

「光の便り」第239号より

十五条の御神訓(第一、二、三条及び十五条)について権宮司(現宮司)講話

権宮司(現宮司)講話

『十五条の御神訓』解説~第一条、第二条、第三条及び第十五条~

宗教的な教えの根源として

(二〇〇九、七、二三)

権宮司様

『十五条の御神訓』は十五条どれも一条一条大切で、どれが一番大切ということはないのです。 それでも世間の方たちから、「お宅の教えは何が大事な教えですか?」と言われたときに、『御神訓』の十五という数は結構多いですから、『十五の御神訓』のうちのどの条を先ずお伝えしたらいいのかなあ、と考えてみました。

『十五条の御神訓』は、最初の条から展開して、最後の一つに集束されていくという構成になっています。
 最初の三条は、皆さんご存知のとおり、
「神は宇宙 霊界を創り 生かし賜う」
「神は 愛と智慧をもってすべてを生かし 進化させ賜う」
「神の愛を感得し 真似すべし」
であり、最後の一条というのは、
「神を愛するものは 一切を成り立たせる」
ですね。
今日は、この初めの三条と最後の一条の御神訓が密接に関連して大神様の教えの真髄をお示しいただいているという話を、これからしたいと思います。
ここに示されているのは、ひとえに玉光神社の教えの真髄というだけではなくて、実は立派な宗教のほぼ全てに共通する宗教的真髄であって、「私たちはこういう信仰をしています」と言ったときに、地球の裏側に行っても、未来に行っても、あるいはタイムマシンに乗って過去に遡っても、どこにでも通用する普遍的な教えなのです。

第一条は「神は宇宙 霊界を創り 生かし賜う」です。 ここで教えていただいていることは神様の創造力のことです。 この世を創られたという、その創造力は、創りっ放しの創造力ではなくて、創られた全てと常に関わって生かして下さっている、私たちをいつも生かして下さっている、そういう創造力である、というのが、第一条で教えていただいている内容です。 ですから、神様のお働きの根源は創造力と言っていいわけですね。
第二条は、それでは、私たちをどのように神様は生かして下さっているのかという内容です。 私たちを生かしてくださるときには、「神は 愛と智慧をもってすべてを生かし 進化させ賜う」。 つまり、私たちを生かしてくださるとき、私たちと関われるとき、神様は、根底に創造力があるけれども、愛をもって、そして智慧をもって、という、この二つのあり方で私たちと関わって下さっている。 そして、「神は 愛と智慧をもってすべてを生かし 進化させ賜う」、つまり「すべてを」です。 「漏れなく」ということです。 差別なくすべてを、創造力をもって生かして下さっているのです。 そして、それだけではなくて、「進化させ賜う」、つまり私たちはただ神様に生かされて今のままである、というだけではなくて、今の状態を神様によって壊されて引き上げられ、進化させられる、これが神様と私たちとの関わりなのです。
私たちはありのままに生きていて、そのありのままの私たちを神様は愛し支えて下さっているのですけれども、しかし同時に、そういう私たちを進化させようとなさっている。 ですから、神様の御経綸に沿うということは、ただ「生かされている」だけではなくて、――この、ただ生かされているということに気が付くというのもほんとうは難しいんですね、私たちには。 なぜなら、みんな自分で生きていると思っていますから―――進化させられること、つまり進化するのではなくて、実は、「進化させられる」ことが、神様の御経綸に沿う生き方なのですね。
初めの二条は神様のお働きについて教えてくださっている。 神様はすべてを創造された、そして創りっ放しではなくて、常に私たちと関わり、生かして下さっている。 それが神様の創造力である。 これが第一条。 第二条は、神様は私たちにどのように関わって下さっているかという内容になっている。 それは、私たちを進化させるため、霊的進化させるためである。 ただの生物的な進化ではなく、霊的に進化させるために私たちを生かして支えて、ある意味で、壊して引き上げてくださるわけです。 そのときの、神様のお働きは「愛と智慧」とによる、ということですね。
以上の二条では、神様のお働きとして、創造力と愛と智慧という三つが出てくるわけです。 これは大体どの宗教にも出てきます。

第三条の内容は、「神の創造力を感得し、真似すべし」ではありませんね。 「神の智慧を感得し、真似すべし」でもない。 「神の愛を感得し、真似すべし」となっています。 ですから、「神は創造力であり、愛であり、智慧である」と初めの二つの条での教えに続いて、「そのうちのどれをあなた方は実践しなさい」かとなると、「愛だ」という教えなのです。
これは非常に大事なのです。 御神訓は神様のお言葉なのですから。『十五条の御神訓』は『玉光教十訓』とは全くその成立の経緯が違うのです。 『玉光教十訓』というのは、お代様を中心に纏められ、言わば、「神様、これでいいでしょうか?」と伺って神様にそれで良しとしていただいた教えですが、『十五条の御神訓』はある朝急に神様が宮司様に下されたのであり、宮司様に下がられた「神の言葉」そのものでありますからね。 その『十五条』の最初の三条で、神様は「神は愛であり、智慧であり、創造力」であり、私たちは「神の愛を感得し、真似」しなければならないと直接教えていらっしゃるわけです。
神様にとって創造力と愛と智慧というのは実は全く同じというか、同じものが、私たちにとっては違って見えるということなのですね。 要するにまん丸なものを見たときに、見る方向によって、ちょっと違った側が見えるというようなものですね。 神様にとっては、創造力と愛と智慧は同じことなのです。 同じことの違う側面なのです。
ところが私たちには、神様は、この三つの神様のお働きのうち、それぞれ好きなものの真似をしなさいとは仰せにならなくて、「愛を感得し 真似すべし」とおっしゃっている。 上の三つは神様にとっては同じものであっても、私たちにとってはやはり別のものなのです。 宗教体験という立場で言えば、高い次元では一つであるものも、次元が下がれば別のものになるのです。 ですから、愛と智慧と創造力は、やはり私たちにとっては別のものなのです、神様にとっては一つでも。 ですからこの三つのうちのどの一つを実践の要にせよと神様はおっしゃっているかというと――神様は「愛を実践の要にしなさい」とおっしゃっている。 それが第三条なのです。 しかも、その愛は人間の愛ではない。 「神の愛を感得し 真似すべし」とおっしゃっているのですね。 これが第三条なのです。

 なぜ、そうお教えになるのでしょう? 深甚なる深い『十五条の御神訓』を私が解説しきれるものではありませんけれども、ただ、私は私なりに、与えられた役目として、これはどういうことだろうと、祈りながら、行じながら、また日々の生活の中で思いますに、私は智恵を得たら、その智恵は自分のために使いたくなる。 ま、人間のです。 私が創造力、力を得たら、その力はやはり自分のために使いたくなる。 これが人間の性なのです。
しかし、「愛」だけは自分のために使えない。 自分のために使う愛は偏った愛であり、それは感情としての愛であって、神の愛ではないわけです。
宗教実践の要は、自己の殻を打ち破ることなのです。 その自己の殻を打ち破る一番の妙薬というか、最もよい道が「愛の道」なのです。 「智恵の道」あるいは「力の道」、どちらも、いつか、どこかで、やはり自分のために使いたくなる。 しかし、「神の愛」を真似ることだけは自分のためというわけにいかないのですね。 ですから、自己の殻を破る一番の近道は、実は「愛の道」なんですね。
私たちを霊的に進化させて下さる、それが、神様と私たちとの関係なのです。 神様は進化させ賜う。 神様はその愛で、そしてその智慧で、その創造力で、私たちを進化させ賜う。 私たちは、本当は自らが進化するのではなくて、神様に進化させられるのだけれども、私たちが進化させられるときに一番の要になるのは、まず、自分でする自己否定であり、それは利己的であることからなるべく離れることであるのです。 そして、それは、他者を愛するということと不可分なのです。
このことは、実は、宮司様が私たちに教えてくださっている宇宙創造の原理と構造の模式図と非常に関係が深いのです。
 まず、創造主、大神様―は単に精神的な存在なのではなくて、モノ(以下では「モノ」と「物」の使い分けには意味があります。 モノは原物質とかモノの原理そのものを示し、物は現象として実際に現れた物を示します)と精神とを両方併せ持った、そしてモノと精神の両方を超えた存在が神様なのです。 その創造主は初めにモノと精神の世界を創造されたけれども、このときはまだ現象はないのですね。 現象というのは、具体的な物質、出来事、具体的な物がたとえば上から下へ落ちるとか、こういう具体的なことが起こる、これが現象です。 つまり、この世界が創造されるというのは、現象の世界が出来るということなのです。
大神様が、創造主が、自らを分けてモノと精神とを生み出されたとき、自らを分けたとも言えるし、産み出したとも言えるし、創ったとも言える。 これは人間の言葉を超えたところですね。 そのときに、モノと精神とは、モノの原理と精神の原理、まだ原理としか言えない状態なのですね、現象が起こってないから。 そして、精神の原理がモノの中に含まれている精神の芽に働きかけて、モノの中の精神の芽が霊的進化する、これが世界創造である、と宮司様は教えてくださっているわけです(『祈りと救い』をお読み下さい)。
つまり、石ころの中にも花の中にも皆さん一人ひとりの中にも魂が宿っているのだけれども、この魂は、元々、モノの原理の中に、難しい言葉で言うと、プラクリティとか原物質、すなわち、根本的なモノの中にあった魂が、精神の力の助けを得て進化して一つ一つの物質をつくり上げる魂になって、その魂が、その物、たとえばこの身体、石ころ、花を維持している、そういうふうに宮司様は教えてくださっているわけです。
 しかし、私の魂、花の中の魂、石ころの魂だけが私や花や石ころを創っているのではなくて、これらの魂は、常に精神の原理の力、つまりプルシャの力、お代様が、「我なきわれ」と詠まれた神我、その神我の力からの助けを得て、自分たちの身体を維持している。 石ころは石ころの身体、花は花の身体、私は私の身体を。
だから、私たちの魂はモノから出てきた魂なのですね。 で、「モノの原理って何ですか」、ということについて宮司様は、「他を除いてでも自分を保持したい」という、他を斥ける、排他的である、そして自分だけを保持しようとするのがモノの原理の根本である、と教えて下さっているわけです。
私たち、私たちの魂、私たちの精神は、プルシャ、我なきわれ、つまり純粋な精神ではあり得ないのですね。 モノから育ってきて、まだ人間の段階に留まっている。 ですから、本来モノの持っている性質、他を斥ける、自分が得したい、自分のため、というのから宿命的に離れられない。 この肉体、あるいは肉体は滅んでも、霊の体、霊体、皆さんなじみのある言葉で言うとアストラル体に宿る私たちの魂は、まだモノの原理とは不可分な魂なのです。 不可分な精神なのです。 だから、どうしても「自分のため」というのから離れられないでいるのが今の私たちなのです。 この「自分のため」というのが本当は自分を苦しめている。 この「自分のため」というのが、本当は人も自分も苦しめている。 しかしどうしても、「自分のため」から離れられない魂が私たちの魂なのです。
しかし、では、いつまで経ってもそれから離れられないかというと、「ちゃんと霊的進化する道があるよ、純粋な精神に行く道があるよ」と教えていただいているのが、宮司様の「三段階のモデル」なのです。 これは若き天才宗教家であった宮司様が、若い頃に啓かれた悟りの中でもうすでに語っていらして、それからずーっと一貫して語ってらっしゃる三段階のモデルですね、「単純な一致・エクスタシー・完全な一致」という
三段階モデルです。これをもうちょっと平たい言葉で言うと、利己的な心がなくなり、利己性がなくなって、超越者(いきなり大神様じゃないのですよ)、プルシャと接することができるようになった状態が第一段階。 第二段階は、大いなるものであるプルシャによって自分の存在が壊されていく、今のあり方が壊されていくのが第二段階。 このときには意識も身体も仮死状態になるから、エクスタシーと名づけていらっしゃるのです。 第三段階は、超越者、より大いなる存在に引き上げられて、より大いなるものと同じ状態、プルシャと同じ段階にまで霊的進化が達した状態、これが第三段階。
もちろん、われわれの霊的進化はいきなりプルシャの段階までにいかないですけれど、どの段階まで進化するにせよ、これらの三段階を必ず踏むと言われるわけです、宮司様は。 ただ、私たちがカラーナの次元にいくには、カラーナの清らかな霊か、あるいはカラーナの魂の形をとって下がってきてくださったプルシャとか、あるいは、皆さんの信仰心が本当に利己性を捨てた愛に達したら、大神様はカラーナの次元まで下りてきてくださり、あたかもカラーナの霊のような姿、形をとって振る舞って下さって、私たちをカラーナのところまで引き上げて下さる。
 ただ、どのような段階へ進化するにせよ、その進化は、三つの段階を経て行われるわけです。 初めは、自分の努力で自分の利己性、つまり「自分のため、自分のため」というのからなるべく離れることによって、より上の存在と接することができる準備ができて、接し始めたのが第一段階。 より上の、より高い存在によって自分が壊されていくのが第二段階。 壊されて引き上げられて、上の段階に達したのが第三段階なのです。
私たちは、「俺のため」「私のため」「自分のため」というモノの原理からまだどうしても離れられないのです。 それはモノの中から出て来た魂が、常にモノに依存し、モノにくっついて存在しているからです。 でも、モノとくっついていること自体は自分ではやめられない。 ただし、自分がやめられるぎりぎりのところまで、「私のため」というのから離れる努力を重ね、モノの原理からなるべく離れようと努力することによって、上の方からの力が下りてきてくれるわけです。 それが本山モデルというわけです。  どうしても「自分のため」というのから離れられなくて、その「自分のため」故に自分も苦しめている、人も苦しめている。 これが私たちの真実の姿なのです。 だからこの苦しみから逃れるためには、自分のため、という利己性から離れなきゃいけない。 だから、霊的進化すること自体が本当の救いなのです。 「自分のため」こそが、あなたも自分も苦しめている。 ところが、この「自分のため」という原理からどうしても本当は離れられないから、知恵や創造力は、これをどうしても自分のために使いたくなる、これが少しでも身に付いたら。 頭が良くなったら、自分の出世と自分の収入を増やすために使いたくなる。 自分のために使いたくなる。 トレーニングして腕力が増えたら、その腕力を自分のために使いたくなる。 そういうのから逃れられないのですね、私たちは。 それは私たちの魂がモノの原理から出発しているからなのです。
ところで、宮司様は精神の原理、つまり純粋精神であるプルシャの働きの原理について、もう一つ別の表現をされています。 形成力であるとか、拡散の力であるとか、でも集約すれば、愛の原理、愛の力というふうにおっしゃっている。 形成力というのは、自分を捨ててモノに入っていって、物を形づくって生かしてくださる形成力、つまりこれは、プルシャの創造力ですね。 これは創造力だけど、プルシャにとってそれは、自分を捨ててモノの中に入っていくから、自己否定の愛なのです。 創造神にとっては、ある意味では、モノさえ自分なのです。 しかしプルシャにとってはモノは自分ではなく他者です。 純粋精神であることを止めて、「場所」としてモノの中に入っていく、そして物を形成してそれを支える。 そのとき物はプルシャにとっては他者であるモノであり、自分の中に存在する物でもある。 自分を捨てて入っていくから、プルシャにとって創造力というのは「愛の働き」なのです。 拡散と宮司様はよくおっしゃるけれども、拡散というのは、要するに自分を他者に「与える」ということです。 これらの働きを集約して、宮司様は、純粋精神の働きは愛だとおっしゃるのです。

だから私たちの霊的進化というのは、モノと精神を統合した創造神との体験が最高の体験かもしれないけれども、私たちの進化の方向性というのは、まずはモノから精神へ、なのです。 プルシャの世界に入っていくのが悟りの始まりだ、と宮司様はおっしゃっています。 プルシャを超えている創造神、大神様は、モノと精神の両方を統合した、すべてを統合した方ですけれども。
では、モノと精神とは、私たちにとっては、単なるプラスとマイナス、陰と陽のように、違うけれども対等の原理、対称的な原理かというと、そうではない。 モノと精神の原理というのは、プラスとマイナス、陰と陽のように、ただ方向性が違うだけの対等な、同等で対称的な原理なのかというと、そうではないのです。 霊的進化とはモノから精神に向かっていくことで、この精神の原理が愛の原理なのです。
神の愛を感得し、そしてその愛を自分が真似しようというとき、私たちは本当に利己的な自分を捨てる可能性が出てくるのです。 智恵と創造力はどうしても自分のために使いたくなるけれども、愛だけは、神の愛を感得し、真似しようとするときだけは、自分から離れざるを得ない。 
少し自分から離れた経験、体験ができれば、それがいかに自分を自由にするか、自分を救うか。 人を愛したときに、それが相手の救いになるだけじゃなくて、本当は自分をいかに救っているかということを体験して初めて、あ、神の愛を感得し、真似するのが救いの道なんだ、とわかるのです。 人の救いではなくて、自分が救われる道なんだということに気がつくわけなのです。 
私たちがこれに気がついて「愛の道」を歩み始めたとき、必ず、自由を感じて、そこに歓びを得る。 そしてその後必ず、モノの原理がもう一度私たちを引き戻そうとする。 たとえば本山一博が人を愛することによって「本山一博」を離れようとする。 「本山一博」という非常に限られた存在から離れていこうとする。 そのとき、あ、なんて自分は自由なんだろう、この道を行けばいいのだと安心したときに、必ず、「本山一博」が本山一博を「留まれ!」と引っ張る。 私たちはそれを繰り返す。 愛を行って自由を感じ取って、そして、この道を歩もうとするときにもう一度引き戻される。 これを繰り返し、繰り返し行うのだけれども、いつまで経っても信仰心を捨てずに神様の真似をしていると、いつの間にか、モノの原理から離れた自由な世界に行く、そういうふうに宮司様は教えてくださっている。 なぜなら、愛こそが純粋精神の働きだから。 霊的進化とはモノから精神に向かう道だから。 そして、その次にはじめて、モノと精神を統合する世界、創造神の世界というのが啓けてくるのだろうけれども、私たちにとっては、まず、モノから精神に向かうのが霊的成長なのです。 そして、神様がモノと精神が分かれたとき、宮司様はその精神を「愛の原理」と呼ばれたわけです。
 大神様の三つのお力、本当は一つであるけれども、私たちにわかり得る形での三つのお力は、愛と智慧と創造力である。 しかし私たちが感じ取って真似すべきは「愛」である。 創造力でも、智慧でもなくて、愛なのだ、と。 それを神の言葉として私たちに教え、諭し、かつ、命じている御神訓が、初めの三条の御神訓なのです。

もう一つ、私たちが本当に祈りとか瞑想とかあるいは超作ということを行っていると、ほとほと、私たちの精神はこの身体に閉じ込められた精神である、この身体から一歩も抜け出せないでいる、ということに気がつくときがあります。 それに気がつかないで、自分はもっと外に開かれているなと思っているうちはだめですね。 自分がこの肉体に、あるいは霊体に閉じ込められている不自由な精神であることに本当に気がついたときに次のようなことが反省できるのです。 つまり、身体に閉じ込められていて、外のことが見えない、盲目であるにもかかわらず、それでもなぜ人を愛することができるのだろう? こんなに閉じ込められて、自分の内側で一人芝居をして、一人夢をみているようなこの自分が、どうして他者を愛することができるのだろう?と反省ができるのです。
その理由は、第一条に示されてあるように、神がその創造力をもって全てに宿って下さっているからなのです。
最後の、十五条目の御神訓は「神を愛するものは 一切を成り立たせる」です。 この御神訓は二つの側面からとらえることができる。
初めの側面としては「神を信じよ 一切が成就する」という御神訓との対比からみられる側面です。 「神を信じよ 一切が成就する」というのは信仰者の立場です。 それに対して、「神を愛するものは 一切を成り立たせる」、これは神様と神人合一を果たした聖者の立場です。 まずはこのように言えるのですね。 
しかし、聖者じゃない私たちにとっては、この御神訓にはもう一つの側面があるのです。
 宮司様(現名誉宮司)のご著書を年代順にずーっと読んでいくと、最初は創造力と智慧についての記述が多い。 ところが、著作集の第七巻『地球社会における生き方と宗教』のころから、だんだん「愛」についての記述が多くなるのです。 『地球社会における生き方と宗教』という本は、お宮でのご講話を集めた本なのですね。 どちらかというと、宮司様(現名誉宮司)のご本は講演録とか講義録が多いのです。 それで、私は最初のうちは、この本は玉光神社における講話集だから「愛」という言葉が多くなったのかなと思って読んでいた。 けれどもよーく読んでいると、この本のころから、「愛」という言葉にずーっと重点が置かれていくのですね。 それと同時に、「愛せよ」という言葉が増えてくるのです。 そして、愛という言葉に重点が置かれていくほどに、「全てに神が宿っている、それ故にわれわれは同胞である。 宇宙全てのものに神が等しく宿っている、それ故にわれわれは同胞である」という旨の記述が増えるのです。 つまり、「神を愛する」ということは、全てのものに宿っている神を愛する、全てのものを同胞として愛する、ということなのです。
福音書によると、イエス様がある律法学者に「律法の中で最も大事な律法は何ですか?」と質問されたときに、イエス様は二つ答えられたのです。 それは、正確な訳文でなく大意をお伝えしますと、一つは「神を愛せよ」、もう一つは「隣人を愛せよ」なのです。 この二つが最も偉大な神の律法だ、命令だと言われた。
この、「隣人を愛せよ」という教えのより正確な訳は、次のような内容なんです。 「神を愛せよ」の方は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(マルコ12-30新共同訳)」。 ところが「隣人を愛せよ」というのは、「隣人を自分のように愛しなさい(マルコ12-31新共同訳)」と書いてある。
自分のように愛すると言っても、これはいわゆる自己愛のことを言っているわけじゃない。 「自分のように愛せよ」、それは、自分にも人にも同じく神が宿っているから、そこになんら区別がない。 要するに他者を愛することは神を愛することであり、神を愛するということは、自己に宿っている神に感謝をすることである、と私は思っています。 我を愛するのではない、自己に宿る神を、そして他者に宿る神を同じように愛する。 そうすることによって、「神を愛せよ」と「隣人を愛せよ」とはつながると思うのです。
キリスト教の特に神秘主義の系譜でも、あるいは神学の系譜でも、こういう議論はある。 そして皆さんの誰もが名前を知っているようなキリスト教の重要な二、三の神秘主義家も、神様は私たち一人ひとりの魂の中にいらっしゃる、と述べられている。 ですから、「神を愛するものは 一切を成り立たせる」という教えは非常に普遍的な内容の教えなのです。

(まとめ)
最初の三ヵ条の御神訓は、神様はどういう方でいらっしゃるか、それは神様は愛であり、智慧であり、創造力である。 そして神様は私たちをどうさせようとなさっているのかというと、私たちを進化させようとなさっている。 進化させようとなさっている神様のお導きに沿って、私たちは進化する。 否、本当の意味で言えば、神様に進化させられる。
そのためには私たちはどうしたらいいか。 智慧の道もあるかもしれない。 創造力の道もあるかもしれない。 智慧の道、創造力の道、それぞれの宗教にあるから、それは否定できない。 しかし、智慧の道だけ、創造力の道だけであると、いつかはそれは「自分のため」ということになってしまいがちだ。 それは私たちはモノから出てきた精神で、モノから離れられないからである。 だから私たちは「自分のため」から離れられなくて、それによって人も苦しめるし自分も苦しめている。 それから離れられる真の救いの道を、玉光大神様は、私たちに宮司様を通して、神の言葉として、「神の愛を感得し 真似すべし」と教えて下さった。
それでは、「神の愛を感得し 真似すべし」、というときに、私たちに何故それができるのだろう、モノに閉じ込められたこの精神、モノから離れられないこの精神が、何故神様の真似をできるのだろう? それは、モノと精神の両方を創られた、原物質も、プルシャも両方を創られた大神様が、実は私たち一人ひとりの中に宿っていて下さるからなのです。 人を愛するとき、我が出るんじゃなくて、我が消えて、「我なきわれ」が出てきたときに、本当の意味で自分をも愛することができるのです(権宮司註:自分を愛することの重要性はまた別の機会に話したい。 他者を愛することと真に自分を愛することは深い関係にある。 さらに言えば、我欲に基づく自己愛は偽りの自己否定である自己拒否につながりやすい。 どちらもありのままの自分を受け容れないからである)。
そして、人を愛するときの一番のコツというか、人を愛せない、でも愛さなきゃいけない、義務で愛するのは難しい、人を愛そう、でも、愛せない、というようなときに私たちがまず思い浮かべるべきなのは、最後の御神訓、「神を愛するものは 一切を成り立たせる」なのです。 この御神訓の根底に、宮司様が繰り返しおっしゃったように、全てのものに創造神が何の差別もなく公平に宿られている、ということがあるのです。 私たちが神を愛するということは、隣人を愛するということと同じだ、そういう内容が第一条の御神訓であり、なおかつ、最後の御神訓であるわけです。
  長いお話になったようですが、真の救いとは霊的成長である、霊的成長して何かこの世的なことがうまくいくのが救いではなくて、霊的成長それ自体が救いだ。 何故救いなのか。 私たちは苦しんでいる。 毎日苦しんでいる。 なんで苦しんでいるかというと、モノの原理から離れられずに「自分のため」で生きているから苦しいのだ。 自分のために生きるのを止めて、財産をどこかに全部寄付しなさいといっても、それもできない。 そんなことしたって、人も自分も生かせない。 どうしたらいいのだろう? どこに救いの道があるのだろう? 
それに対して、はっきりと、「神の愛を感得し、真似しなさい」と書いてあるのが『十五条の御神訓』の最初の三条と、この最後の条ですね。
では、今日はこれで終わりにします。
どうもご苦労さまでした。

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