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「本山博著作集」第六巻の読みどころ   宮司 本山一博

今月は第六巻の読みどころをお送りします。 この巻に収録されている著作は宮司(現名誉宮司)の玉光神社における講話から構成されていますので、信徒の皆さんにとってもなじみやすい語り口になっています。共通しているのはご神言に基づいた宮司様の世界宗教への論考が深まっていくことです。

 地球社会における生き方と宗教

六十歳代前半のころの主に玉光神社における祭事などでの講話により構成されています。本書の特徴としては環境問題と政治経済についての言及が多く、世界宗教についての考察が実際の国際社会との関連でなされているからことがあげられます。実際の世界宗教の姿を射程に入れた考察がなされているのでしょう。また、愛という言葉が多用されるようになります。そして、人間一人ひとりが宇宙の全てのものとのつながっていることを説く話が多くなります。これは1988年に「玉光大神様は宇宙創造の神様である」と宣言したこと(このときの講話も本書に収められています)と関係があるでしょう。宇宙創造の神様とは全てのもの創りそこに宿る神様です。全てに神様が宿っているということを軸に本書を読むとその議論の縦糸が見えてきます。本書において、内なる神と外なる神が実は同じであるということが今までよりも明確に語られています。それは宗教実践において外なる神により自己否定が完成されると、外にいらっしゃると思っていた神様が自分の中にいらしたということが分かるという文脈においてです。そして、本書において「神様の真似をする」ということがかつてなく繰り返し述べられますが、人間が神様の真似ができるのは実は神が宿っているからでしょう。
また、散見される自叙伝的告白は若き日の宮司(現名誉宮司)のご苦労が伝わり胸を打たれます。

 存在のより高い次元  〜個人性-社会性、そして超作〜

この短い論考では人間の個人性と社会性が語られます。人間にこの両方があるというのは当たり前のことです。しかし宮司(現名誉宮司)はこの当たり前のことを個と場所という概念を背景に語ります。つまり社会を単なる個人の集合とは捉えずに、その背後の場所的存在つまりプルシャがあると論じます。そして場所つまりプルシャを背景とした、人間の自己否定をともなう日常的な行為を超作と捉えます。

 啓示された人類の行方

元日祭における年頭のご神言を発表されるときのご講話を1974年から1993年の分まで集めたものです。いわば予言の書ですが、それは当たった外れたというような予言の類ではなく、これからの人間と人類のあるべき姿を神が示すという意味での「預」言の書です。
1982年には「世界宗教の基盤を作れ」というご神言が宮司(現名誉宮司)に対してあります。それに応じて宮司(現名誉宮司)もそのようにするという決意を述べられます。1984年からはご神言は特に多くなり多岐にわたります。その年にはその後の玉光神社の教えを大きく方向付ける「霊界の人々の霊的成長が、これから加速度的に進む」というご神言があります。このご神言を受けて祈りの言葉「顕界と霊界に霊的進化と調和がもたらされ、この世に神の国が実現しますように」が定められます。またこの頃に宮司(現名誉宮司)の宇宙観、宇宙創造観が体系的にまとまるようです。1985年では日ごろの心がけとして「超作をせよ」というご神言があります。1986年には「10年ほどで世界の共同体化が加速する」というご神言があります。
1989年では「いろいろな意味で国の内外で波乱が多い」というご神言がある。その他いろいろとご神言があるが、「地球の霊の世界では露米中日で非常に霊的な進化が進む」「50年から100年後に新しい世界宗教が霊界と顕界で行われる準備が今出来つつある」というご神言が注目される。著者は欧ではどういうわけか霊界での霊的進化が遅いようだとコメントしている。また、太陽系外の銀河系のなかで新しい生物の世界が生まれて、地球の霊界のようなものができつつあるというご神言がある。
著者はまず「西洋的物質文明的な普遍的生活様式」で「各国の生活様式が一種の汎化現象を示しつつある」ことを将来の地球にとって非常に大事なことであると述べていわゆるグローバリズムを積極的に評価する。そのためにはたとえば日本人であれば日本の文化の枠を超えなければならない、そして普遍的な宗教理念に基づいた文化が必要になると説く。非常に統一ということに軸足を置いた議論を展開する。これは今であれば少々修正されるかもしれないが、この時点においてはやはり地球規模の統一された何かを著者が強く志向していることが分かる。
さて、地球規模の普遍的な宗教とは何かであるが、著者はまず自己愛と生への執着が国や時代を超えた人間の普遍的な性格であると述べる。ひっくり返せばこれら自己への執着を超えることが普遍的な宗教のあり方ということになろう。ではどのようにすればこの自己への執着から離れられるのか。著者はここで前年の延長線上にある修道理論を述べる。それがまた、地球統一と日本人、宇宙創造神と玉光大神という文脈と関連しているのが興味深い。著者は自己への執着から離れるためにはまず自己という枠を自覚せよという。そして日本人はまず日本人としての枠を自覚せよというのである。自己の枠を自覚するためにはまず自己を観てそしてその自己の枠を観る必要がある。そのためには自己の外側への視点、そして自己の外側からの視点が含意されていなければならない。それは地球社会、地球宗教のための視点が地球外へのそして地球外からの視点を含意していたのと同じである。そしてここで「自覚」という若いころからの論点が結びついてくる。一方、前年の秋に著者は玉光大神は宇宙創造の神であると宣言するのであるが、この元日の講話では玉光大神は宇宙創造神が日本と日本に縁の深い国のカルマを浄化するために顕現した神だと説いている。そして世界のものがみな宇宙創造神によって創られた同胞であるという意識を根底に持って日本のカルマが解け日本が栄えるように祈れというのである。これは前年までの議論を考えれば、宇宙創造神が他の国でも他の形で顕現し、その国のカルマを解くように働いていること、そして根底ではすべての国の人が本来は宇宙創造神によって創られ生かされている同胞であるということを前提にしているであろう。霊界についてのご神言、さらに太陽系外の霊界についてのご神言は宇宙創造神が文字通りの宇宙の創造神であること、しかもそれが物理的宇宙のみならず霊的宇宙も包含した宇宙であること、地球社会とか地球宗教はそのような文脈で考えるべきことを示しているのであろう。ここでもう一度修道論の議論に戻れば、自己への執着を離れるためには前年の議論のように働きながら、しかもその働いている自己を観なければならない。そして自己の枠を観てそれを自覚し、それを超えなければならない。そのようなことが可能になるには自己の外側からの視点がそこに生じなければならない。つまり他者としての視点が介在しなければならない。人間は働けば必ず他者と出会う。そこに働きながら観るということの重要性がある。他者と出会うゆえに他者としての視点が生じる。しかし動物ではそのようにいかないであろう。動物は感覚を通して他者からの情報あるいは刺激に反応するだけであり、他者と出会うわけではない。人間にはもともと他者の視点を取り込む能力があるのである。それが自覚ということと深く結び付く。しかし、他者の視点をなぜ取り込むことができるのか。それは他者もやはり宇宙創造神により創られそして現に今生かされていて、その点で自己と本質的に同質だからである。いま現に同じ創造神が自己と他者の両方の中で働いているからである。自覚と他者の存在は深く結び付き、その両者は創造神という「場所」により関連付けられる。この議論は実はお馴染みのものである。どこでお馴染なのかというと博士論文の第六章である。いかに博士論文の思想が著者の根底にあるかが分かる。
日本の国のカルマを玉光大神に祈ることが地球社会実現のための実践であると言えるのは玉光大神の本地が宇宙創造神であるからだ、という議論は実はこのように修道論とも深く結び付いているのであった。
また、『地球社会〜』の解題でも記したように全てのものとの同胞意識がこの年から強調されるようになる。
また、興味深く思われるのは霊界や宇宙についてのご神言は著者が「気になったものですから伺った」からあったということである。このようにはっきりと述べたのはここにおけるのが初めてであり、その後の年ではたびたび出てくる。それ以前のご神言には一方的に神から著者に与えられたという印象のものもあった。しかし、ここではご神言は著者への神からの応答という側面が感じられる。ここにいわゆる「神のことば」の絶対性と相対性の問題が生じる。宗教の統合を考えるとき、この困難でそして信仰者には実存的危機をもたらす問題とどうしても向き合わねばならない。そのとき著者がこのように率直に神との関係を告白したものが記録に残ることの意義は大きいであろう。ナーガールジュナは真諦と俗諦の関係を論理的に示しただけであったが、著者はその関係を生身の人間の宗教体験の記録を通して述べているといえる。
1990年ではほぼ前年の内容と同じようなご神言になっている。
著者はこの年になると「三つの勢力」が資本主義、社会主義、第三世界という認識を示す。以前の米ソ中という認識から変化してきている。ご神言の相対性のみならず、ご神言の解釈の相対性もまた問題になるのである。一般に宗教の歴史は一方では教義解釈つまり釈義の歴史でもある。そこに光もあれば影もある。そして実は光としての意義のほうが大きいのである。第三世界に著者が触れるときにはたいてい格差と不公平を問題にし、神はそのような不公平を許さないと説く。その根底にはすべての人間が霊的進化をして神のもとに還っていくという著者の確信がある。そして前年に引き続き同朋意識が強調され、それが愛という言葉になっていく。前著の如く愛という言葉の重要性が増していくのである。
また、自由になったら本当に自由であると説く。自由になったら悪いことが起きてもそれを楽しめるようになる。カルマの中で働いている自分を観客として見られるようになる。そうなると自分の中で変わらずに光り輝いているものが分かるようになる。本当に自由になったら今まで自分が心の中で思っていたことがクズにすぎなかったことが分かる。このようなことを最後に説いている。これは9年前の1981年に見られた彼岸主義的な言葉の延長にあろう。これは脱現世利益宗教であるともいえる。著者はその優れた霊能から信徒からは現世利益を求められることが多かったし、それに実際に応えてきた。それは著者にとっては愛の行為であるのだが、一方では普遍宗教を志向する者として葛藤もあるよう見える場合もある。私が釈尊が現世利益的呪術をきっぱりと否定したということを『密教ヨーガ』の解題に記したとき、著者はそのような釈尊のあり方に非常に否定的であった。しかし、ここでの彼岸主義的態度はやはり釈尊的であり、殉教を厭わなかったイエス的でもある。たぶんこれは宗教が抱える永遠のテーマの一つなのであろう。
同じ年の秋季例大祭の講話も載っていて、ここでは世界平和を祈ることの重要性が解かれている。祈りの力を強調することもまた著者の特徴の一つであろう。
1991年は大きな流れについては今までと変わらないが、この年に崩壊するソ連の混乱や湾岸戦争について多くの専門家が長期化を心配する中、ご神言は早期の解決を予言している。そしてその通りになったことが玉光神社信徒にとっても強い印象を残した。
著者はこの年に中東の地域が地球にとって一つの弱点となるところだと主張した。中東地域は地球の外からの神霊や霊的存在が入ってきやすい場所であり、そのためにかの地では争いが絶えないのだという。1987年のご神言にある善神悪神が地球外に由来するものもあるという認識をここで示し、そのようなものが入ってくる場所が中東地域であるとする。そして人間が自己に執着する限りこれらの神々の影響を受けて争いが生じるが、自己への執着を離れて霊的に成長すれば争いは起こらなくなるとする。著者はここで中東地域は地球にとってマニプラチャクラのようなところだと述べるが、後になって地球にもチャクラがありそれはいくつかの場所にあると主張するようになる。著者の地球思考が一方では宇宙思考であることの一端が見える。
他にはそれぞれの文化の枠を超えた地球文化のための国際的な教育機関ができるというご神言があったという。これについて私が知っている日本の宗教界からの動きをひとつ紹介したい。玉光神社教祖が最初に上京したときに教会のために借りた場所が新宿の少し南の代々木山谷というところであるが、その代々木山谷に妙智會教団という日蓮宗系の新宗教がある。その妙智會が世界の子供の未来のために「ありがとう基金」を立ち上げるのが1990年である。その後教団後継者の宮本けいし師のリーダーシップのもとに「ありがとう基金」が母体となって「子供のための宗教者ネットワーク」が立ち上がる。そして国連との協力関係を築きあげ国際的に著名な学者や有識者と協力をして倫理教育委員会を組織し子供が異文化と出合い、理解し、尊重しあうための国際的なプログラムを2000年代後半に作り上げるのである。妙智會は黒子に徹しおり、一宗教団体のための活動ではなく、国連機関などとの協力のもとに国際的なプログラムとして高く評価されている。
最後のバブル経済について言及しているが、100円の価値のものは100円でなければならないという論を述べている。これは経済問題のみならず仮想現実について考えるときの著者の基本的な姿勢となっていく。
1992年では、著者は始めに人間には心・身・魂があること、してそのそれぞれに個人性と社会性があること、これらの五つの要素が満足できる社会ができなければならないと整理された形で述べる。また、科学と宗教の結びつきについて、エネルギー革命について、資本主義体制の変容についてのご神言を述べる。しかし、著者にとって最も大きく響いたご神言は「今までの人間では、世界に本当の神の国は実現しない」、「人間の魂として最も優れた次元の霊の世界の霊たちの誕生、再生が徐々に始まって、新しい種の人類による神の国の実現が達成されるだろう」「今の、感情と物の原理に支配された人類の再生は次第に少なくなる」という内容のものである。著者は全ての人間が霊的進化をして神の元に還ると信じていた。霊的進化に関して、いわば結果の平等を信じていたのである。それがこのご神言によってある意味で覆される。私はそのときの著者の落胆振りをよく覚えている。また、魔的なものが蔓延る時代になる、という内容のことをこのころからよく言うようになった。若いときから著者にとって魔は実在であったが、一方ではそれは乗り越えられるべきものであり、なおかつ覚者は魔を乗り越えたらそれを包んでしまえるようになるべきであった。しかし、このときから著者にとって魔とは退ければならないものとしても認識されるようになる。著者の宗教観はこの点に関して今まではインド的であった。しかし、このご神言によりむしろ経典宗教的な側面が出てきたのである。
それでも著者は第三世界のことに言及しつつ平等主義を主張する。著者の葛藤が感じられる。これは単に機会の平等だとか、結果の平等だとかいった概念で片付けられるものではないであろう。
そして、前年の秋季例大祭の講話に引き続いて祈りの力が強調される。
1993年のご神言も今までの延長線上にある。この年には宗教観の協力や宗教観の対話の必要性についてのご神言があるが、その後に玉光神社が教団本体としてそれに取り組んだことはない。また、著者はその頃から目立ってきた民族紛争の根底には宗教の争いがあるという認識を示す。私自身はその後に宗教間対話に参加するようになるが、そこでよく言われるのは民族紛争の本質は経済、政治にあるのであり、宗教ではないということである。著名な学者もそのように発言することが多い。しかし私は宗教間の根強い争いがやはり根底にあると思う。宗教が唯一の原因ではないであろうし、多くの場合主たる原因ではないかもしれない。しかし、宗教観の争いという側面を全く無視するのも机上の空論ではなかろうか。宗教が異なる場合に人間の間にできる壁は非常に高くて厚い。宗教的エゴがいかに強力であるかは宗教の世界にいればこそ実感するものである。
また、著者はここで欲望こそが人間社会の発達を促す原動力であることをいったん認める。そのうえで欲望を離れることの重要性、人間と自然の魂に目覚めることの重要性を教えるご神言について述べる。ご神言は全てに神が宿っていること、それゆえに同胞意識を持つべきであること、その自覚が地球社会の実現に必要であることを教えるのである。これは前年のご神言、いわば人間社会の進化の段階説というようなものと対応しているであろう。欲望によって社会を発達させる段階の人類と霊的進化によって社会を発達される段階の人類である。

 見えてきたこと

以上のように本書を概観するとあることに気がつく。私はこの著作集の編集のために著者の本を年代順に改めて読んできたのだが、そうすることによって著者の思想の展開が見えてきた。それは著者の中でなされてきたのだと思っていたのだが、本書を改めて読むと、著者の思想の展開には必ずそれが著作に反映されるのに数年先立ってご神言がある。これは貴重な記録である。宗教者としての著者のあり方が深まっていくことの記録であるが、またこれは神と人間の関係の記録でもある。宗教は神が作るのではない、人間が作るのでもない。神と人間の関係の中で生み出されていくものなのである。関係とは常に相対的なものである。それゆえに、この記録は「神の言葉」の絶対性と相対性の関係を証言している。宗教間の調和は人類が挑戦すべき困難な課題である。そこには対話が必要であり、相対化のための葛藤が必要である。それぞれの宗教が自らの絶対性をある意味で放棄するとき、では何が自らの宗教の絶対性であり相対性であるのかという問題に直面し、そして苦悩するであろう。これをどう乗り越えるのかいまだ人類には答えがないといえる。ただ本書の中にはその糸口があるように思えるのである。