2021年1月1日 元旦祭 宮司講話
2021年1月1日 元旦祭 宮司講話
人は超作によって神を知る
― 空の論理 ―
皆さん、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今日のお祭りは、やっぱり正月らしくて、おめでたかったですよ。世相は新型コロナで大変ですけれども、お祭りはおめでたく、しみじみとさせていただけました。
今日から、皆さんに『光の便り』でもご案内した、銘酒「豊玉」をお供えしております。私は、皆様の内なる神性を豊玉と解釈して、今日の祝詞でも「創造主(つくりぬし)、創造主の大御働(おおみわざ)、万霊生生物万物(よろずのたま、いきとしいけるもの、よろずのもの)の内に物す(ものす:宿るという意味)豊玉、この三つの玉之光の違わぬ事の真(まこと:真理という意味)」というところがあるのです。初代宮司様は、玉串奉奠は自分の魂そのものを玉串に託して神様にお供えするんだとおっしゃっていましたが、神様にお酒を奉るときには、自分の魂、内なる神性をお供えするつもりで、御神酒「豊玉」をお供えしていただけたらと思います。でもね、強制ではないですよ。何をお供えするかは、信徒さんお一人おひとりの自由ですからね。
その皆さんの神性を照らしてくださる妙光之神様がひらかれたこのお宮ですけれども、それを初代宮司様が引き継がれて、私たちに超作の教えを説いてくださったわけですね。今日はその超作の教えについて、初代宮司様が毎年、元日祭のときに教えてくださった大神様の御神言と、そのときのご講話を少し引用しながら、お話ししたいと思います。
『玉の光』にはね、神様の御神意に沿うことを願い、御神意に沿うことを実行すると、神様の御働きと自分の働きが一つになり、そして御神意が実現し、自分も周りも成り立つ、つまり自分も周りも幸せになる、ということが書いてあります。あたかも四コマ漫画ように、起承転結がしっかりとある「超作ストーリー」が『玉の光』の中には描かれているんです。神様が願われていることを願い、神様が願われていることを実行し、神様の御働きと自分の働きが一つになって、神様が願われていることが実現して自分も周りも幸せになる。神様のように思い、神様のように行い、神様の御働きと一つになり、御神意が実現する。この四コマをさらに縮めると、次のようになります。初めは、神様の願われていることと自分が願っていることが一致するんですから、二願一致です。次に、神様のように行い、神様の御働きと自分の働きが一致するんですから、倣神一致です。倣神一致とは、創造主に倣いて、創造主のお働きとの一致に至る、ということですね。ですから、この四コマ漫画は二願一致から倣神一致へという二コマ漫画に縮めることもできるんですね。この超作ストーリーは分かりやすいですね。
しかし、ストーリーそのものは分かりやすいとしても、神様のように願うとはどういうことなのでしょう。要するに、御神意にかなうことって何なんだろう、という問題が立ちはだかる。これがなかなか難しいわけですよ。もっとも、御神意に沿うことは何かということは、『十五条の御神訓』に書いてあるわけです。『玉の光』には超作ストーリーが書いてあり、『十五条の御神訓』には御神意が書いてあるわけですから、『玉の光』と『十五条の御神訓』で車の両輪であるわけですね。そんな話を十一月十五日と十二月八日にしましたね。
ただ、『十五条の御神訓』は難しいですよね。『十五条の御神訓』を頂戴したのが一九九五年です。それ以前に、初代宮司様が、『十五条の御神訓』とは違う角度から超作の方法論についておっしゃっていたことを、かつての元日の御神言集から引用してお話をしたいと思います。まず、一九七八年には前回ご紹介したように、
『物の世界で起きることは、すべて心のとおりに起きるのだ、一切のものをつくり出すのは心なのだということを、皆によく教えるように』
という御神言があったんですね。それは、初代宮司様に対する御神言であったわけです。だからね、何かを物の世界で実現させる前には、まずそれを自分の心の中に実現させなくてはならないんです。心の中で実現させることが大事です。ですから、神様のように願うということが大事なんですよ。御神意を願うことが大事なんです。強く思うこと、願うことによって、まずそれが心の中で実現されます。
同じ年の元日のご講話で、初代宮司様はこの御神言を受けて、次のようにおっしゃっています。
「これは本当に神様の道にかなって正しいことなのだから、是非これを実現したい」と自分の心に強く思って神様にお願いしつづけていると、いつかは必ずそれが実現する。
初代宮司様はそこで、御神意にかなうことであれば、それを強く思え、強く願え、そうすれば実現する、とおっしゃっている。ですから、強く思うこと、常に願うことは、やはりとても大事なことなんです。心の中で実現させて、そして物の世界で実現させる。
じつは、それと似たようなことを一九八一年にもおっしゃっていました。一九八一年の御神言はここではご紹介しませんが、初代宮司様は元日祭にこんなことをお話しされていました。
ところが、神様とつながって、皆が成り立っていけるように広い心に自然になって、そこでこれをしたい、あれをしたい、こういうふうになりたいと心が決まったら、そういう心が思ったことの内容は自然にまわりの条件が整って、実現するようになりますね。
ここでは、初代宮司様は強い思い、強い願いのことを「心が決まる」と表現されている。ただ、心で決めたことが実現するためには、神様とつながった心になっている必要があるというわけです。それは御神意にかなっていることを強く思い、願うということです。
これらの二つの講話では表現は違いますが、初代宮司様はかなり一貫した主張をされていると思うのですね。神様とつながった心が思うことは神様の願われていることであって、要するに御神意だということになります。
けれども、先ほどと同じで、御神意は何かというと、やっぱり『十五条の御神訓』ということになる。しかし、『御神訓』は難しい。御神意に沿うということに関して、初代宮司様は『御神訓』以前にどうおっしゃっていたかな、ともう少し探ってみました。すると、今、紹介した七八年と八一年の間の年の七九年に興味深いことを初代宮司様がおっしゃっていました。
こういう時代の中にあって、皆さんに、具体的に日常生活の中で実現してもらいたいのは、玉光神社の経典『玉の光』の中にある「中」を実現するように努力してもらいたいと思います。
七九年ですと、『十五条の御神訓』の十六年前です。そのときには『玉の光』の中にある「中」を実現してもらいたいと初代宮司様はおっしゃっています。「應用其の中を得ば、即ち一切の苦を離れ」の「中」ですね。そして、その「中」について初代宮司様は同じ講話で次のように述べられています。
この「中」とはどういうことかというと、三世紀ごろインドに出られた龍樹菩薩が『中論』で説かれた「中」と同じだと思うのです。
ここで初代宮司様は、なんら根拠を示されずに、『玉の光』に書いてある「中」は龍樹菩薩=ナーガールジュナが『中論』の中で説かれた「中」と同じである、とおっしゃったのですね。
そして、「中」の状態に達するにはどうしたらいいのかということを、やはりこの七九年のご講話の中でおっしゃっています。
まず自分のことを考えるのを止めて、自分の周りに住んでいる人たち全体が、皆、調和をして平和にそれぞれ動いていけるように心がけたり、考えたりしながら行為をする、それが「中」だと思うのです。
自分だけよくなったらいいという考えがあったのでは、まず「中」にはならないと思います。
すべての人が皆成り立っていくようにするためには、しかし、智慧が要ります。これをしたら相手のためになるだろうと思って一生懸命にしても、実はそれが自分だけの考えで、本当は相手の役には立たないようなありがた迷惑というのがずいぶんあるようですが、それはやはり、どこかで智慧が足りなくて、見極めができてないからですね。また、国のためとか、皆のためだからというので、今自分がしようとしていることにこだわって、どうしてもこうしなければいけないと執着して思いこんだら、それも「中」ではなくなってしまう。そこには、やはり一つの個人主義が残るのです。ですから、結果にとらわれない超作ということが大切ですね。
以上の三つ、つまり全体の調和を常に心がけること、そして智慧をもって、超作によって、その調和がとれるように行為をすること、この三つができないと、『應用其の中を得る』という「中」にはならないと思うのですが、「中」を得るのは、なかなかむずかしいですね。
今の引用はちょっと長かったですね。ここで初代宮司様がおっしゃっている三つのことの一つ目は、全体が調和するような視点に立ちなさいということで、別の言い方をすれば、神様の視点に立つように努力しなさいということですね。難しい言葉で言えば、場所的自己否定をしなさいということです。全体が成り立つように考えなさいということですね。二つ目は、智慧がいるということですね。ここでは自分勝手なものの見方では駄目だとおっしゃっているわけなんですけれども、『玉の光』の「中」は『中論』の「中」と一緒だとおっしゃっているのですから、初代宮司様がここでおっしゃっている智慧とは、「中」の智慧、つまり「空」を悟る智慧だと思うのです(「中」の智慧が「空」の智慧であるということは後述します)。そして、超作をしなさい、行為をしなさい、とおっしゃるんですね。『玉光教十訓』でも、「果を求めずして己が本務を盡すべし」のあとは、「人は行ふことによりて其の地位を決定す」となっています。つまり、『玉の光』にしろ、初代宮司様のご講話にしろ、そこで表現されている御神意は一貫していて、行為をすることが非常に重視されている。
以上から、このご講話で示された「中」を得るための三つのことをまとめると、①全体を見る、つまり神のような視点に立ちなさいということ、そして、②空の智慧をもちなさいということ、③そして行為をしなさいということ、なんですね。そして、神のような視点とは、利己的でないこと、相手が成り立つように意図すること、全体の調和を考えること、などとされています。だから、場所的自己否定なのですね。
また、次のようにも書かれています。
そしてその「中」を得た状態が、一つの悟りの境地なのです。
ですから、悟りを得るためには超作をしなさいということかもしれないけれども、ここで一つ大事なことは、まず行為をしないと超作にはならないということです。同じご講話で初代宮司様は次のようにもおっしゃっている。
それから、いつも全体の立場でものを考えたり行為をしたりする人は、とくにヨーガの呼吸法とか瞑想とかはしなくても、いつの間にか心が拡がって、その拡がりに応じた力がその人の中に入ってきて、ものを動かしたり、人を動かしたりできるようになります。
つまり、超作をすれば、呼吸法とか瞑想とかしなくていいんだよ、とおっしゃっている。全体の立場でものを考えたり行為をしたりする人、要するに、神のように思い神のように行う人は、力がその人に入ってくる、要するに、神様の御働きと自分の働きが一致する、とおっしゃっているんです。だから、ものを動かしたり人を動かしたりできるようになる、つまり御神意を実現させることができる、ということなんですね。
僕はこの年になって、つくづく思いますよ。御神意は一貫している。大神様は、御神意を『玉の光』の中で表現されたり、『十五条の御神訓』で表現されたり、初代宮司様におっしゃらせたりなさって、様々な形で示されていますが、その内容は常に一貫している。大神様は行為をせよとおっしゃっている、しかも善き行為を。善き行為とは全体が成り立つように神様の視点に立ってする行為のことなんです。これは、「中」を得るための三つのことの、一番目と三番目ですね。
二つ目は空の智慧を悟りなさいということですが、空の智慧とは何でしょうか。この七九年のご講話で、初代宮司様は『玉の光』の「中」は『中論』の「中」と同じだと、なんら理由を示されずにおっしゃっていました。ところが、『中論』という本の中で「中」という言葉は、じつは一回しか出てこないのです。『中論』という題名なのに、「中」という言葉が一回しか出てこない。ですから、『中論』の「中」を知るには、まずそこを読むしかない。
『中論』には日本語の現代語訳でいくつかあるんですけれども、最初は中村元先生という方が訳されたから、それから読んでみましょう。「中」という言葉は、第二十四章の十八偈に出てきます。
どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。
この中道が「中」というわけなんですけれども、これを聞いてすぐに意味が分かる人はいないと思います。別の重要な翻訳で、三枝充悳という先生が訳したものがあるから、それを読んでみます。
およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。それは相待の仮説(縁(よ)って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。
こういう難しい哲学論議を僕みたいな馬鹿が簡単な言葉で説明したら、専門の先生から、あいつまた馬鹿なことを言ってるなぁ、と思われるかもしれないけれども、まぁ、一応申します。仏教用語としての縁起とは、何かを縁として何かがあるということで、要するに単独で存在しうるものは一つとしてなく、すべての存在は無数の原因と条件によって成り立っている、ということです。言い換えれば、そのような原因や条件がなければ、それは存在し得ないということです。どんなものであっても、それ自体ではあり得ない(このことを無我と言います)、他の何かによって、他の何かに頼って、他の何かに依存して、他の何かの支えがあって、存在しているものであり、それが縁起しているということなのです。
縁起したものは、あると言えば、確かにある。そして、私たちに「それ」があると思わせている。しかし、あるにはあるんですけれども、私たちが「それ」と思っているように、それがあるわけではない。私たちが「それ」として認識するものは、仮にあるのであって、そのことを仮に設けられたものというのです。私たちが「それ」と認識するものが、確かに存在していて、その存在が縁となって私たちに「それ」という認識を生じさせている。しかし、その存在は私たちが認識しているような「それ」として、あるわけではないのです。分かりにくいですね。
そこに時計があるでしょう。あれは確かに私たちが時計として認識するような性質を備えているから、そこに時計があると私たちに思わせるものが、確かにそこにはある。確かにあるんだけれども、私たちの時計という概念や観念にそのまま対応するようなものが、時計そのものとして、そのままあるわけではない。そこにあるものは、私たちにとって時計として仮にあるわけです。何かがあったとき、それは縁起したものであり、私たちに「それ」として思わせるように存在しているけれども、「それ」そのものとして、実在しているわけではないというわけです。難しいね。難しいですよ。確かにここに神棚があるわけですけれども、私たちにこれは神棚だと思わせるものが、ここに確かにあるんだけれども、私たちの認識の中にある神棚そのものが、ここにあるわけではない。ところが、私たちは、神棚そのものとして、ここにある、と思ってしまう。
何々そのものというのは、なんの変化もできないものなんです。そのものだから。私たちの頭の中にある「何々そのもの」は、以前お話ししたように他から切り離された、つまり世界から切り離されたものです。そのようなものは決して変化をしないし、他との関係も持たない。それは頭の中にだけあるもので、実際にはないものなのです。それは、私たちが仮に想定しているものに過ぎないのです。私たちは、その仮に「何々そのもの」であると思っているものが、そのまま外の世界にあると思っている。自分の心の中、頭の中にしかないものが、実際にあると思っている。それが無明であり、苦の原因である、と龍樹がこの本の中で説かれているわけですね。
もう一度、中村先生の訳を読んでみます。「どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である」。中道の「中」というのは、有と無の二つの極端(二辺)から離れることです。私たちは、時計がある、神棚がある、と思うけれども、私たちが時計だと思うもの、神棚だと思うものが、そのままあるのではない。これは有の否定です。しかし、私たちに、あれは時計だ、あれは神棚だ、と思わせるものは、確かにそこにあるんです。ないわけではない。これは無の否定です。このような意味での有も無も真実ではない。そのことに気がついて、そういう思い込み、つまり有や無というものの見方への執着から離れることが「中」なのです。それが空の智慧なんですね。
とは言うものの、時計が空である、神棚が空である、と悟っても、私たちにとっては、まぁどうでもいいことなのかもしれません。そうなのであれば、何が空であることを悟るのが一番大事なのか、何の空を悟らなければならないのか、つまり、仮のものに過ぎないことを知るべきものは何なのか、本当は何を悟らなければならないのか、ということが問題になります。その答えが書いてあるのが、同じ『中論』の十八章の第四偈です。それを、まず三枝先生の訳で読みましょう。
外に対しても、また内に対しても、〔これは〕「我がものである」「我である」という〔観念〕が滅したときに、執着(取)は滅せられる。それの滅によって、生は滅する。
ここで言う我がものとは、自分の身体と心のことです。外に対してもとは、身体のことを指しているのかもしれません。内に対してもとは、心のことなのかもしれません。
いずれにせよ、これは我がものである、これが我である、という観念が滅したとき、と言っても、この身体と心がなくなるわけではない。これは自分の心身だ、これは自分だと私たちに思わせるものは、確かにあるんです。ないわけがない。確かにある。しかし、それは自分が思っているような自分の心身と自分自身ではない。自分のもの、自分、というのは仮にあるだけであって、自分のもの、自分、と私たちが思っているものが、そのままで存在しているのではない。私たちの頭の中、心の中にある「自分のもの」「自分」は、観念としてあるだけで、実際にそれとしてあるのではない。ここで書いてあることは、そういうことだと思うんです。
その観念が滅したとき、執着は滅せられると書いてあります。そして、執着の滅によって生は滅する、と言うんですね。これも意味が分からないですね。死んじゃうわけではないんだからね。そこで、別の訳で読んでみます。桂紹隆先生という方の訳です。これもいい訳なんですね。この部分は、こちらの訳の方が分かりやすい。
外にも、そしてまさに内にも、「私」や「私のもの」という意識が消滅するとき、[欲取・見取・戒取・我語取という四種の]執着(取)が滅する。執着が消滅するから、[再び]生まれることも消滅する。
これは、はっきり分かる。インドでは、苦の世界とは輪廻の世界です。そして、再び生まれることが消滅するということは、輪廻から逃れることであり、それは苦から逃れることであり、解脱するという意味なんですね。ですから、自分であるとか、自分のものであるという意識あるいは観念が消滅するということは、私たちが思うような自分とか自分のものとかは仮にあるものに過ぎない、ということを悟ることであり、それを悟れば解脱すると書いてあるわけです。私も、私の身体も心も仮のものに過ぎない。仮のものに過ぎないんですよ。自分も自分の心身も空であるとは、そういうことです。
空ではないものは硬いものです。世界から切り離すことができるものは、それだけで成り立つ硬いものです。そのような硬いものの中には神様の御力が入ってこない。それでは、神様のお働きと自分の働きが一致することはできない。空であるから働きが一致する。空であること、仮のものであることが、一致という場面では重要なんです。
私たちは仮にあるものなんですが、それでは重要な存在ではないのかというと、そうではない。初代宮司様は偉かった。偉かったけれども、普通の男性でもあった。父親としては、僕にとっていろいろ困っちゃうことも多かった。極めて個性的な人でしたからね。それに比べて、大御子神様はなにせ神様ですからね、完全無欠かどうかは分かりませんけども、完全無欠に近かったり、永遠なるものに近かったりするのでしょうね。完全で永遠なるものは創造主だけでしょう。しかし、大御子神様も永遠なものに近いのでしょうね。なにせ、悟った方の神としての本性が大御子神ですからね。先ほど言ったような意味で、本山博という男性、初代宮司様は仮のものですよね。九十年で消えてなくなってしまった。おぎゃあと生まれて九十年ですから。
でもね、大御子神様におできになれなくて、本山博という男性、初代宮司様にできたことがある。大御子神様にはどうしてもおできになれないんだけれども、初代宮司様にはできたこと、それは生身の人間としてこの世で行為をすることなんですよ。玉光大神様だって、この生身の人間である本山博という男性が、この世におぎゃあと生まれて、生きて行為をしてたから、それを道具にして使うことがおできになった。その道具があればこそ、こうやって皆に御神意を伝えることがおできになったわけですね。たとえ仮のものであったとしても、その仮のものが道具として働かなければ、御神意はこの生身の世界には実現しないんです。
仮のものだから、過去にもないし未来にもない。永遠にあるわけではない。仮のものとして今あるだけなのだから、私たちは、この今にこそ行為をしなければならない。それが、『十五条の御神訓』の第十条である、「今を超作せよ」ということの一つの意味でしょう。そこには、今超作をすれば絶対の神に還れる、悟れるよと書いてある。
初代宮司様は「中」を得よとおっしゃり、そのためには神様の視点に立ち、空の智慧をもって行為せよ、とおっしゃった。空の智慧とは、自分はいるにはいるんだけども、仮にいるだけなのであり、硬い存在、切り離された存在としてあるのではないということです。だから、神様の視点に立てるし、神様の御働きと自分の働きが一つになれる。仮にあるからこの世に生きて、御神意を実現するために行為することができる。そういう空の智慧をもって、『十五条の御神訓』に取り組んで、御神意が何であるのかを、常に問い続けるようにしていただきたいと思っています。
『玉の光』に示された超作のストーリーはかなり分かりやすいですよ。そのストーリーは、神様のように願い、神様のように行い、神様の御働きと自分の働きが一つになり、そして神の思いが実現して自分も人も幸せになる、というものです。起承転結のはっきりした、分かりやすいストーリーです。しかし、神のように思うには、つまり御神意を分かるためには、空の智慧がいる。つまり、自分の身体、自分の心、そして自分というものは、私たちが思っているようにあるわけではなく、仮にあるものだということを悟らないといけない。自分、自分のものが、仮のものだと悟れば、利己的な執着はなくなる。だから、全体を見渡せる。そして、他者のために働ける。そういう人は御神意が分かる。御神意が分かれば、今を超作できる。そして、超作は神様の御働きと自分の働きが一致する神秘的な体験が核にあるのだから、他力によって悟りに至るんです。
空の真理を理解して、あるいは信じて、神様の道具として行為をせよ、そうすれば、「中」を得る、つまり、本当に悟りを得る、と初代宮司様は七九年のご講話で話された。それが端的に示されているのが、「今を超作せよ 絶対の神に還れる」ですね。
御神意は何かということを常に問い続けるようにしていただきたい。そして、これは御神意だと思ったら、強く念じ、強く思い、強く願ってほしい。強く願うことは祈ることそのものです。それが出発点です。そして、強く願ったことを実行していただきたい。すると、御神意にかなっていることであれば、神様の御働きと自分の働きが一つになって実現する。そういうわけですね。御神意は、大神様の御神意は本当に一貫している。
もう一つだけお話しします。祈り、瞑想、超作という初代宮司様が説かれた三つの実践のうちで、正月の御神言に出てくるのは、じつは超作だけなんです。意外にも祈りも瞑想も出てこないで、超作だけが出てくるんです。正月の御神言は一九七四年から始まって、二〇〇五年まで三十年くらい続いている。その間にね、出てきたのは超作だけなんです。祈りも瞑想も出てこない。
そして、最初に超作が出てきたのは一九八五年なんですね。それは、『一日に一つでもよい、短い時間でもよいから、超作をするように。』というものでした。『玉の光』には超作のストーリーが明確に書かれているんですが、『玉の光』ができたのは初版が一九四八年で、「本務の義」が加わった第二版が一九五六年です。そして、そのおよそ三十年後の八十五年に超作という言葉が正月の御神言で最初に出てきた。そして、次に出てくるのがそのおよそ二十年後の二〇〇七年です。その後二〇〇九年に出てきます。だいぶ神様も気が長いと言いますか、私たちの理解が遅いから神様はゆっくりと教えてくださったのでしょう。ただ、御神意は一貫している。
皆さん、今年こそは超作をしましょう。その出発点は、御神意にかなうことを願う、御神意にかなうことを強く思う、強く願うことです。一般の方にも分かる言葉で言えば、善きことを強く思い、善きことを強く願うことです。そして、思い続ける、願い続けることです。それが超作の一番の大事な出発点で、それは七八年、八一年の講話ではっきりと述べられている。御神意にかなうことであれば、強く願えば実現すると、明確に初代宮司様はおっしゃった。それが重要な出発点なんだけれども、さらに、行為をする、それを行えば、必ず神様の御働きと自分の働きが一つになり、御神意が実現する。御神意の実現がもっとも重要なことなんです。なぜなら、それが皆さんと皆さんの周りを幸せにする一番の道だからです。
大神様は、二〇〇九年の正月の御神言で、次のように仰せになりました。
『人は超作をして、自己の殻を破り、霊的に目覚め、大きな力、神によって生かされているということを次第に自覚できるようになる』
宗教イデオロギーによってではなく、パフォーマンス的な儀礼によってではなく、同調圧力によってではなく、つまり教団システムの力によってではなく、そしてスピリチュアルなファンタジーによってでもなく、人は自らの善き行為によって神を知る。大神様がそのように仰せなのだから、必ずそうなる。神を知り、御神意を実現させる人が増えること、これこそが救済です。
さて、今ご紹介したように、正月の御神言で初めて超作という言葉が出てきたのは、一九八五年です。二〇二五年になったら、それから四十年経つことになります。そのきりのよい年までには、超作の布教を一つの形として完成させたい。それまでに、人々に超作の何たるかを理解していただき、実行していただくための形を明確にしたい。そして、『十五条の御神訓』をいただいたのが九五年ですから、その年は『十五条の御神訓』の三十周年の節目でもあるわけです。私が初代宮司様から宮司を継承したのが二〇一五年ですから、私にとっても宮司継承から十年という節目になります。いろいろと節目なんですね。私は超作を広めようと宮司になったわけですからね、その節目の年、二〇二五年までに、なんとか超作の布教のための明確な一つの形をつくりたいと思っています。
そして、二〇二五年にはもう一つの大きな節目があります。それは、初代宮司様生誕百周年です。大神様が初代宮司様を吾が子として選ばれて、超作を説かせられたのです。その初代宮司様の生誕百周年なのですから、お誕生日である十二月十五日に、お祝いのお祭りをして、そこにおいて大神様と大御子神様に、超作の布教の奉告ができるようにしたいと思っています。
今から、五年足らずしかありませんが、私も超作の教えをよく理解し、自ら超作をできるようにして、皆さんとともに、玉光神社という一つの組織の枠を超えて、超作を人々に示せるように、努力するようにしたいと思っています。そのような奉告が生誕百周年のお祭りでできるように、私も努力しますが、皆さんにもお願い申し上げます。
今日は短いお話をしようと思っていましたが、大変長くなり、失礼しました。初代宮司様が、『玉の光』の「中」は龍樹菩薩が説かれた「中」と同じだとおっしゃっているところを読んだとき、僕はすごく不思議な気がした。というのも、この『中論』という哲学書に書かれている空の思想と、ここで初代宮司様がおっしゃっていることが、内容的にはすごくかけ離れているように見えるからです。しかし、そのように思うのも僕の知恵が浅はかだからでした。龍樹菩薩が説かれた、我と我がものの滅こそが、超作の大前提であったんですね。
今日は元日から長い話になりましたが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
(了)