2024年10月23日 御本宮大祭 宮司講話

2024年10月23日 御本宮大祭 宮司講話
初代宮司はなぜ創造主信仰を説かれたのかを考えてみました


 今、ウクライナと中東で深刻な戦争が行われています。そこで戦っている人たちは主にキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒です。もちろんこれらの戦争の原因は宗教そのものではありません。しかし、彼らの信仰する神様は同じで、それはユダヤ民族やアラブ民族の始祖であるアブラハムが信仰した創造主です。同じ創造主を信じる人たちが戦争している事実を目の当たりにすると、創造主信仰とは何なのだろうかと素朴に思ってしまいます。
 そもそも、創造主というのは私たちにとって計り知れない何かです。世界いや宇宙の創造など私たちには想像もつかないからです。ですから、創造主と言っても、そこには単に言葉や理念があるだけのような気がしてなりません。そういう意味では、創造主信仰を論じたところで、それは単なる机上の空論なのかもしれません。しかし、三十六年前の今日、初代宮司様は秋の大祭の講話において、まさにこの場所で、玉光大神様は宇宙創造の神様だとおっしゃり、私たちの信仰が創造主信仰であることを宣言されました。それも空理空論だったのでしょうか。そうではないでしょう。

 初代宮司様は創造主宣言をされたあと、創造主と大神様の関係についておっしゃることが揺れておいででした。創造主と大神様は同じだとおっしゃることもあれば、大神様の御本地は創造主だとおっしゃったりもしました。それは初代宮司様にとって言語化できないことだったのかもしれません。私はむしろ、それは初代宮司様にとっても計り知れないことであったのではないかと思っています。初代宮司様は、そのような計り知れなく言語化しにくい創造主への信仰を、なぜあのとき説かれたのでしょうか。その講話を読んでみますと、そのときに説かれた主題は創造主の何たるかなのではなく、創造主を信仰する人はどうあるべきかということだったように思います。
 今から三十五年以上前のこの場での講話において、初代宮司様は、創造主を信仰する人はすべてのものを同朋つまりハラカラだと思えと説かれたのです。これは信仰においてはよく言われることであり、スピリチュアルなものを好む人たちもよく言うことです。ですから、ありふれた主張だと言えるかもしれません。一見ありふれたこの主張を、初代宮司様は自らの深い体験と本山博神学の堅固な論理に基づいて述べられたのです。今日は、すべてが同朋であるということについて、私自身が思っていることをお話しようと思います。

 私は井の頭の御神前において日々世界平和のお祈りをいたします。そして、ウクライナや中東の戦争の終結を祈ります。しかし、自分にそのようなお祈りをする資格があるのかとよく疑問が生じます。皆さんもご存知のように、イスラエル軍はガザ地区にいる戦闘員ではない多くのアラブ人を無慈悲に殺し続けています。一方で、ハマスはこの戦争の発端となった襲撃において、イスラエル人やその場にいた外国人をむごたらしい方法で、あるいは言葉にできないようなおぞましい方法で殺し、しかもその様子を動画に撮ってインターネット上で配信したといいます。イスラエル人であっても、アラブ人であっても、誰であっても、昨日今日にそのように家族や身内、友人を殺した相手を許すことができるでしょうか。世界平和を祈るということは、そのような人たちに相手を許し和解せよと要求しているようなものなのです。
 果たして、私にそのような要求をする資格があるでしょうか。私は自分の身内を殺したわけでもない、自分の生活を脅かしたわけでもない人たちに怒りを抱き、憎み、恨み続けています。そのような私が世界平和を大神様にお願いする資格があるのでしょうか。
 それでも、創造主を信仰する者として、他者を許し受け容れるように努力はしているつもりです。身近な人に怒りが湧き、許しがたいという感情、罰を与えたいという感情が湧いたときに、自分の内面を見つめてみます。すると、相手と自分の間に明確な線が引かれ、相手は悪の側にいて、自分は正しい側にいることが分かります。これはすぐに分かります。しかし、その善悪の線は自分が引いたものであり、客観的に存在しているのではないことを分かるのはなかなか難しいものです。また、その線を引いたのが自分であることが分かったとしても、その線を消すことはさらに難しいのです。
 それでも、本山博神学や同じ主張をする古今東西の神秘家の証言を信頼し、そして『教祖自叙傅』に記されている大神様の御神言を信じて、創造主が相手の中にも自分の中にも生きていらして、相手も自分も創造主に生かされ、相手も自分も創造主に愛されている、と思うように努力できるときがあります。さらに、心があたかも機械のように必然的に働いて生じる強い抵抗を退けて、相手と自分との間にある線を乗り越えることができるときがあります。そのようなときには、意識状態が変性して明晰になり、それまで立てていなかった地平に立って、なにかを見通すことができます。
 そのようなときには、相手に対する憎しみが消え、受け容れる心が生じてきます。これは、『十五条の御神訓』に書かれている「愛」に近づけた状態であるような気がします。また、それまでは相手のした憎たらしい行為と相手の存在とが分かちがたく結びついていたのに、その行為と相手の存在の価値とを切り離して捉える知恵が生じてきます。それは『御神訓』に記されている「智慧」に少し近づいたものであるような気がします。そのようなときには、相手の行為が調和を乱すものであればその行為自体を拒否しつつ、相手の存在を受け容れることができます。それゆえに、愛と智慧、つまり倫理と神秘とは自己否定を通じて不可分に結びついているように感じられるのです。そして、自分にも世界平和を祈る資格が少しくらいはあるように思えてくるのです。

 大神様は『御神訓』の第一条で創造主信仰を説かれます。第二条で創造主の愛と智慧が不可分であること、その創造主のお働きがこの世に存在するものを生かし、活かし、この世に多様性と調和を生み出し、生きる者たちを創造主のもとに還らせるものであることが説かれます。そして、第三条においては創造主を信仰する人間のすべき実践の第一は、創造主の愛の真似であることが説かれます。
 第三条は神の愛の感得をしてから、その真似をするというふうに読めますが、私は創造主の愛を感得するという神秘と、信頼できる教えに基づいて倫理的な行為をすることは不可分なんだというふうに理解しています。なぜなら、自分の体験から次のように思うからです。私にとっては、瞑想などの宗教的行をすることによって神様と出会うのは困難なことでした。しかし、御神意に沿う、つまり神様の倫理に沿うような心をつくり、そして行為をする方が、自分にとっては神様との出会いの可能性があると感じられたのです。いわゆる宗教的行は、倫理的になるための準備であると思っています。ただ、それは私の理解であり、深遠な『御神訓』の意味するところの一部でしかないとは思っています。いずれにせよ、第一条から第三条は『十五条の御神訓』の全体を貫く土台であり、ここを悟ることはとても大事なことだと思っています。
 私は『十五条の御神訓』に記されている「愛」とは何であるのかをよく考えます。そして、それを教えてください、悟らせてくださいと祈ってから朝の瞑想をします。それでもさっぱり分からないので、井の頭の大前で御神訓籤を一回引きました。すると、第一条をいただきました。はじめは何のことか分からず、そのまま大前に座していましたが、次第に今日お話したようなことが心に浮かんできました。創造主がすべての人、すべての自然、すべての霊の中に生きていらっしゃり、それらを生かし、それらを愛されていること、そのことが『御神訓』に記されている「愛」の根拠であるのだと思い至りました。
 許せいないものを許し、受け容れる、そのように生きていけるようになりたい、そう思っています。さらに、神の愛をもって人と自然そして霊を積極的に愛せるようになりたい。それが創造主信仰なのだと思っています。



宮司 元旦祭・大祭 講話