
2025年4月8日 春の大祭 宮司講話
2025年4月8日 春の大祭 宮司講話
玉光大神様への信仰と創造主信仰
~お代様と初代宮司様の思い出とともに~

みなさん、春の大祭のご参列ご苦労様でした。僕も大祭を無事にご奉仕できてほっとしております。それでは、講話をいたします。
僕が小学校の三年か四年の頃だったと思うんですけれども、しばらくの期間、毎日夕方になりますと教祖であるお代様と二人で『玉の光』を一巻奉唱しておりました。場所はこの御社殿ができる前に御祭事をしていた旧社務所の小さな御神前です。そのときには、お代様は神様とはこうなんだよとか、信仰とはこういうことなんだよ、ということは何もおっしゃいませんでした。ただ、『玉の光』を一巻一緒にお唱えするだけだったんです。ただ、それが、何て言うんですかね、私の信仰の下支えというか、最も基盤になる経験の一つだったと思っております。そのとき、僕は玉光大神様に対して、なんというか、生きた神様、血が通った生きた神様という感じがしたものなんですね。
さて、お代様は私が小学校六年生に上がってすぐに亡くなられました。そして時が流れ、一九八八年、私が大学院に入ったころに、初代宮司様が玉光大神様は宇宙創造の神様であるとおっしゃったんですね。そのとき、僕は非常に違和感と戸惑いと反発を覚えました。僕にとって、玉光大神様はお代様と一緒に手を合わせた、血の通った生きた神様であったわけなのですけれども、宇宙創造の神だなんて言うと、理念的で血の通わない死んだ神様みたいな気がしたんですね。しかし、やはり当時の教団の指導者である初代宮司様のお言葉に従って、「宇宙創造の神玉光大神、守り給へ幸へ給へ」と唱えていくうちに、そういった反発もだんだんと薄れ、慣れていったわけですね。
そして、初代宮司様が創造主信仰を宣言された八八年から七年経った一九九五年に、『十五条の御神訓』という根本的教義を大神様からちょうだいしました。初代宮司様は、玉光大神様がおっしゃるのをそのままメモに書き取ったんだとおっしゃっていたので、そのまま大神様の御神言であり、一条から十五条まではそのままの順番であると、私は信じているわけです。そして、第一条は「神は宇宙霊界を創り生かし賜う」とありますから、『十五条の御神訓』は明らかに創造主の信仰についての教えなんですね。
一方、私もだんだんと宗教についていろいろと勉強していきますと、創造主を信仰する一神教的な宗教は、理念化しやすく、よってイデオロギー化しやすく、そしてイデオロギーは原理主義を生みやすいということが分かってきました。さらにイデオロギーと原理主義が分断と混乱を生みやすいということも、だんだん知っていきました。
すると、やはり一九八八年に感じた違和感、玉光大神様は僕にとって血の通った生きた神様であったのに、宇宙創造の神だなんていうと理念的で死んだ神様みたいだと思った最初の違和感は、あながち間違ってもいなかったんだなと思いました。
そうであれば、なおさら創造主信仰をどう捉えればいいんだろうと思いました。初代宮司様は長い宗教的な探求のすえにそうおっしゃったのだし、大神様がくださった『十五条の御神訓』もはっきりと創造主信仰が記されている、これを僕はどう捉えて信仰していけばいいんだろう、と結構これでも思い悩んだんですよ。実は、ものすごく悩んだんですよ。
そして、あることに気がつきました。『十五条の御神訓』の第一条には「玉光大神は宇宙霊界を創り生かし賜う」とは書いてないんです。ただ、「神は」としか書いてない。『十五条の御神訓』に記されている神という言葉は、確かに創造主を指しているんですけれども、そこには創造主と玉光大神様がどういう関係なのかについて一切記されていないんです。あたかも、お代様が教主として玉光大神様への信仰を説かれたように、『十五条の御神訓』では玉光大神様があたかも教主のように創造主信仰を説かれているんですね。それが『十五条の御神訓』の構図だということに気がつきました。
それでもう一度、初代宮司様が一九八八年十月二十三日の秋の大祭で創造主宣言をされた講話を読み直してみますと、そこには創造神とはなんなのかとか、宇宙創造とはどのように行われたのかといった哲学的な論議はないんです。ただ、すべての人、すべての自然、すべての霊たちを同胞とするように生きなさい、という生き方が説かれているのです。
ですから、創造主信仰とは、「宇宙創造とはなんぞやと」か、「宇宙創造の神とはなんぞや」ということなのではなく、すべての人、すべての自然、すべての霊たちが同胞であるという生き方をすることなのだ、と僕は思うようになりました。そして、僕にとっては、血の通った生きた神である玉光大神様に深く帰依しながら、すべてのものを同胞とするような生き方ができるように努力していくこと、それが創造主信仰であると思うようになりました。
もし、大神様が教えを広めよと思召すのであれば、それは決して、「唯一の神であるこの神を信じよ」とか、「今の信仰を捨ててこの神を信じよ」というようなものではないと思います。それぞれの人が、それぞれに縁のある御神仏に生きた信仰をしながら、すべての人、すべての自然、すべての霊が同胞であるような生き方をできるように努力すること、それを伝えるべきなのではないかと思います。それが、様々な文化があり、様々な国があり、様々な人々がいるこの地球のうえで求められている、創造主信仰のあり方ではないのかと思うようになりました。
今日の私の講話はこれで終わりですが、少し蛇足でお話しします。実は、今日の大祭講話として、もともと別の内容の講話を考えていたんです。しかし、今朝になって、「大神様や信者さんのお役に立つ講話ができますように」と自宅でお祈りをしてから『十五条の御神訓』のくじを二回引きました。最初は第十二条、次に第一条を引きました。第一条は先ほど申したように創造主信仰を説くところですね。第十二条は、「人、自然、霊と霊界との調和において人の世は成り立つ」です。これは、すべての人、すべての自然、すべての霊を同胞とするによって調和がもたらされる、という教えです。それで、「さて、これに基づいてどのようなお話をしようか」と思ったときに、お代様と祈った日々と初代宮司様の創造主宣言に覚えた戸惑いを思い出しました。そのようなわけで、今日のような講話をいたしました。
宮司 元旦祭・大祭 講話